「パーマネント・プレス 13 1995年4月25日発行」
文学
パーマネント・プレス 13 1995年4月25日発行
記事内容
論考■石川為丸「恭順の場から『詩の死』を退嬰的に語るな」(近藤洋太・瀬尾育生について)
詩■坂井信夫「痙攣」 芝憲子「天国の天皇」 吉沢孝史「ノナマエの蛇」
瀬尾育生論 「逃走する虫の無責任」
恭順の場から「詩の死」を
退嬰的に語るな (上) 石川為丸
瀬尾育生論を全面展開する前に少しだけ寄り道をすることにした。〈「詩の死」をめぐる感想〉(現代詩手帖12月号)という仰々しいタイトルを付された近藤洋太の感想文を読み、もろ、「ガラス戸を爪で引っかかれたような気色の悪さ」を感じてしまったので、まずこれを片付けておこうと考えた。
近藤洋太は、「かつて全共闘体験を持った者が、現在何を考えどう生きているのか、七三項目にわたってアンケートをとり、その結果を整理してまとめた本」であるという「全共闘白書」(新潮社)の出版について、いかにもありそうなものではあるが、はっきりと反発を示している。彼は、〈かつて「新左翼」といわれ、「革命戦争派」とはいわずとも「武装闘争派」だった面々の、最大公約数としての今日の姿〉というものを、そのアンケートの回答結果から、〈うんざりするほどの「革新」になってしまっているのだ。〉と見なし、大いに嘆いている。嘆きはわしらにもあるのだが、洋太とはいささか方向性が違うようだ。洋太はこんなことまで言ってるからね。〈私はかつての面々の「転向」を非難しているのではない。人はそれぞれの場で積極的、消極的に「転向」するだろうが、これでは「転向」すらできてはいない。〉とさ!
気楽な非転向の論理
洋太先生は、「全共闘」運動に関わった者は「革新」の水準にとどまっていてはいけない、もっときちんと転向すべきであると、えらそうに教えを垂れているのだ。洋太がこのような思いにとらわれてしまった背景には、「二十五年という歳月が経ってしまい、あの当時と状況がずいぶんと変わってしまったという事実はいかんともしがたい」とか、「どうしても今という時代と切り結ばないのだ」といった素直な感想が示す通り、時代の推移というものがあっけらかんとあるのだろう。そこには、やはりまた、あの変わり身の早さ、すなわち資本主義のスピードにただ一心に同調することだけを是としてきた彼らのお決まりの生のスタイルを見て取ることができよう。気楽なものである。いつも自分だけ安全地帯においてきたのだから。洋太自身にとっては、「転向」なんてことはありえなかった。なぜなら、自ら述べているように彼自身〈思いかえせば、かつて一度も「左翼」だったことがない〉のであり、洋太にとっての全共闘運動への関わりも、これも彼自身が言うように「せいぜい町奴的正義感からあの運動に関わったといったほうが正確だ」といったほどのものだったのだ。なるほど、あの頃も今も一貫して彼は「左翼」ではなかったのであり、「町奴」風にやってきたのだから、もとより「転向」などはあり得なかったのだ。
こんな風に、自己の履歴を現在に安く渡し、過ぎ去ったものの苦々しくも今では滑稽なものとなってしまったかも知れぬ、ともあれそれぞれの個人的な苦闘の数々を軽くいなしてみせる気楽な発言が、やすやすとまかりとおってしまうほどに、「詩」に関わる時はふやけた成熟を遂げてきたのだということを、索漠と思い知らされてしまったよ。わしらのこれまでの、さまざまな思いを込めておいたはずの表現としての〈沈黙〉はいったい何だったのか。吊られたゴンドラに乗り高層ビルの窓の掃除とか、縁の下に潜り込んで家屋の白蟻駆除をやったり、配達や塾の教師など、人それぞれであったが、身過ぎ世過ぎで体制のなかへの「長征」として、何も〈書かないこと〉が、七〇年代に言葉を失った多くのものと連帯しうる唯一の方途ででもあったかのように、わしらはやってきたつもりだったのだが、今となってはあまりにもむなしい気がする。死者をして死者を葬らしめよ。いや死者をして生者を葬らしめよ。限りない錯誤であったかも知れない沈黙。
平定された世間に
了解を求める愚劣
とりわけ「連赤」の死者の死は重いはずだ。彼らもまた洋太のような「町奴」とは違う、誤っていたとはいえ、正真正銘の「革命戦士」だったはずであるから。ひどい矮小化を被っているにもかかわらず、すでに死者であるがゆえに語ることは一切できないのだ。その反面、殺害した側の永田はぐだぐだと言い訳をし過ぎた。永田が世間に対して語るべきことがあるとすれば、多数の同志を殺してまでやろうとしたことだけだ。語るならむしろ死者たち(殺害した者たち)に向かって語るべきだったのだ。だが永田は平定された世間に向かってのみ「了解可能」なように語ってきたのだ。だから、「私だったかもしれない永田洋子鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ」(道浦母都子)なんてふやけた短歌を引き寄せてしまうのだ。君だったはずがないじゃないか道浦母都子。
近藤洋太も、永田の手記「十六の墓標」(彩流者)を読んでみた感想をこんな風に書き留めている。
〈私は最近になってようやく、永田洋子の手記『十六の墓標』(彩流社)を読んだ。あのリンチ殺人にいたる経緯を正視するにたえなかったからだが、読んでみてあらためて「ふつうのまじめすぎる人間たち」が、極限状況のもとで易々と「総括」という名のリンチ殺人を執行していくことに慄然としないわけにはいかなかった。当時「武装闘争派」と「革命戦争派」は紙一重であった。町奴的正義感からあの運動に関わったものが、ある「決意性」をもてば、だれでも「革命戦争派」になることができた。つまり私だって、なにかの人間的な関わりのはずみで「連合赤軍」事件の当事者になることは、十分にあり得る話だったのだ。〉
正視するにたえなかったのなら、町奴みたいにただ浮かれていればよかったのにね。当事者の手記を読んだりしたところが、洋太の一貫しないところである。それはいいとして、町奴的な洋太もまた自分も連赤事件の当事者になることは、「充分にあり得る話だったのだ」なんてことを言ってるよ。決意の問題に倭小化してしまったところが、いかにも軽薄な町奴的な洋太らしいところではあるな。当時、すでにひよって、某大学図書館でバイトをやっていた洋太が、連赤に参加していたはずがないじゃんよ。だが洋太は「決意」や「はずみ」といったもので「ふつう」の人間たちがやってしまったこととして「連合赤軍」を了解してしまう。(借り物の言葉ではあるにせよ、「ふつうの人間たち」なんて安直なもの言いは何も言わないに等しいのだけどね)。まあ、洋太みたいな町奴的なのと、連赤の連中とかと違ったところは、前者がムード的に「反逆」に共感していただけなのに対して、後者は本気で革命をやろうとしていたということなんだよな。でもな、わしは洋太先生とは違い、「決意」の局面が違かっただろうし、かりに何かの「はずみ」があったとしても、ひきとどまり、「連赤事件」に連座するようなことはなかっただろうということ。その程度の眼力は養っていたはずだよ。連合赤軍のやったこと、すなわち、民間の猟銃店から武器を盗み(京浜安保共闘)、銀行から金を盗み(赤軍派)、綱領を不問にして「軍」の野合を遂げ、山岳アジトに逃げ込み、同志を殺し、逃亡の途中であさま山荘で民間人を人質にとり「銃撃戦」を展開し、逮捕され、権力に屈服して自供するに至る一連の過程を見ても、いいところは一つもなかった。気の毒だが、やらない方がずっとましだった。「日本階級闘争史上初の銃撃戦」などと持ち上げるおぱかさんもいたけれど、結局その銃は何の表現もしなかったのだ。とはいえ、繰り返し言うが、誤っていたとはいえ、洋太風の「町奴的正義感」とは違い、彼らは本気で革命をやろうとしていたのだ。それだけに、その中途で、同志によってくだらない理由で殺害されてしまった者の沈黙は重いものとしてあるのだ。
しかし、洋太は、同志を殺害したあげくに権力にとらわれてあっさり自供するに至った永田の饒舌に乗って、一連の「連合赤軍事件」を町奴的正義感で行動していた自分と同じ水準の出来事としてあっさり了解してしまった。それは彼の過ごし方、すなわち、資本主義のスピードにほいほい同調することでしのいできた「軽さ」のなせる業でもあったのだろう。