「パーマネント・プレス 6 1993年7月6日発行」
文学
パーマネント・プレス 6 1993年7月6日発行
記事内容
詩集情報■吉岡良一「息をしているのが 妙に不思議だ 午後六時」
詩誌情報■石川為丸「天皇制を追認していく 城内平和の現在詩」
詩■甲田四郎「牛乳」 坂井信夫「冥府の蛇 25」
追悼■前田俊彦さん、プレセンテ! 石川為丸
詩誌情報 石川為丸
天皇制を追認していく
城内平和の「現在詩人」 (上)
「現代詩手帖2月号」では瀬尾育生が「日本語が笑っている」なる未整理なままの粗雑さを示すへんてこりんなタイトルで「リレー時評」のスタートを切った。以後3月号では吉田文憲の「“岩蔭”の変身」、4月号では稲川方人の「私は人として最低である」と続いている。「もういいかげんで、そんなくだらないしろものについて言及するのはやめにしたら」とこれまでにもいろいろな人達から忠告されてはいるのだが、まだまだやめられそうもない。この「リレー時評」に表現されているひどく現実離れした「明るく(ちょっと元気は感じられないが)軽くて朗らか」なものが、わしらの同時代の詩人の現在であるということに、そして、彼らの紡ぎ出す弛緩しきった言葉の連なりが詩の現在であるということに、もっともっと驚きたいのだ。炎の絶えた後の年ごとに華やかになっていく巨大な都市のうつろいを横目に視ながら、《語れない石》として〈書かないこと〉で生きてきたわしらの時間はいったい何だったのか、今こそ、あきれかえりたいのだ。
瀬尾は藤井貞和詩集「大切なものを収める家」の前註と日本国憲法の前註との類似点を自己流に見出して、強引に、その《大切なもの》を収めた家から語り出しているのは「天皇の声」であるかもしれぬという結論を導いている。べつに藤井を弁護するつもりはないが、瀬尾のこの論はあまりにも独断的で、説得力に欠けている。むしろまるっきり間違っているのだということは、きちんと指摘しておかなければならない。彼の、類似点による強引な結び付けというお得意のレトリックは、吉田文憲の詩集「人の日」と吸血鬼(=「大地を封印すること」)などは成功していておもしろく読めたが、今回のは残念ながら粗雑さが目立つばかりである。だがその粗雑さの中に、はからずも現在詩人の退廃ぶりがほの見えてしまっている。
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを、深くよろこび」で始まる現行憲法の前註を瀬尾はこんなふうに自己流に翻訳する。「《朕》はこれから日本国憲法なる言葉を語るのだが、これは《朕》の言葉ではない。日本国民の総意なのだ。……」と。その前註からこのように読み取るのは瀬尾だけだろう。そこでは、有り得ない「国民の総意」なるレトリックを駆使しているにすぎない。したがって瀬尾自身が、「法として語っている天皇=国民の総意の言葉が憲法である。」と考えていることを表明しているだけだ。もとより彼には批判の視点はない。さらに彼は、現行憲法の前註は、「日本語のなかで主格を不定にすることによって、異物(敗戦や占領軍)をそこへ融合するために置かれているのだ。」なぞと中学生でも分かるような間違いを言っている。どこが不定なものか。もう一度「前註」を見てみよう。ついでに参考までに他のものも挙げておこう。瀬尾の誤りが歴然としてくるだろう。
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」
〈朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕陸海将兵ハ全カヲ奮テ交戦ニ従事シ〉(日米開戦の詔書)
〈朕卜爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ〉(二一年一月一日の詔書)
御覧の通り、主格が「不定」になりがちな日本語の習慣のなかで、この《朕》という特殊な主語だけはまるで欧米文のようにその位置を明解に文頭で主張しているではないか。「不定」どころではない。あまりにも明解すぎるほどである。なぜなら、《朕》は「日本国民の総意の声」などはすっとばしている唯一絶対な「国家権力の一人称代名詞」なのだから。「主格の不定」ということから、藤井の詩集「大切なものを収める家」と「憲法」を結び付けた瀬尾の立論の前提からして崩れている。
「日本国民の総意の声」などなかった。現行憲法は戦前の「大日本帝国憲法」の定める手続きに則って天皇の発議によって「修正憲法」として制定されたという奇妙ないきさつを持つものである。戦争の最高責任者を断罪するどころか、戦前(中)と本質的に同じ構造の天皇制を温存してしまったのだ。戦後国民の「総意」など実質でも形式的にも問われたことなど一切ないのだ。天皇制という不条理をかかえた、戦後「民主主義」が戦前(中)と本質的に連続面をもつ帝国主義の道をほどなく歩み始めることになるのは必然の成り行きであった。「人民」の自由よりも「国民」の名に於いて「国益」を優先する政策に足元をすくわれ有効な反撃を加ええないままに現在に至っているのだ。ったく、「法として語っている天皇=国民の総意の言葉が憲法である。」なぞと愚にもつかぬことを言ってはいられないだろう。
阿賀猥は「樹が陣営」9の一文で瀬尾の詩論「文字所有者たち」から引用し、「これほど不快な文章を最近見たことがない」と極めて率直に述べているが、わしもまた瀬尾の文には別の理由で不快を感じている。それは、〈そこでは(藤井詩集「大切なものを収める家」では)ひとつの言語のなかであらゆるものが口を開いている。〉とか〈《大きなよだれかけのうえに死児はいる》(吉岡実)というように、死体をよだれかけのうえにのせて、詩の外にある世界と釣り合わせればいいのだ。〉といった、「おいおい、そんなことありうるのか?」とか「そんなのでほんとに世界と釣り合うと思ってんの?」とでも言いたくなるようないいかげんなレトリックの多用が理由ではない。論を紡ぐうえでの彼の心情の「うそ」がわしらに不快を感じさせるのだ。尻窄みになっちゃったけど、二年前、彼らの湾岸戦争詩に関するやりとりの発端になった藤井の詩「アメリカ政府は核兵器を使用する」が、詩集収録の際には平仮名、片仮名が相互に変換されたことにふれて、「私が語るのは私の言葉でなく《あなた》の言葉である、その中ではだれが語っていることもできる、という日本語のどこか怪物的な特性が、藤井貞和の詩集の中で可能性を開き切っているのだ」と瀬尾は評価する。だが、そんな可能性がいったい何になるのかという疑問も当然生まれてくるはずで、瀬尾にしてもそんな可能性はちっとも信じてはいないのだ。どうしても納得できないものがあるならば、ダメとはっきり言えばいいじゃんよ。前の詩もだめだったけど、ひよって改変しちゃったのでますますだめになったということさ。「危険ナでるた地帯ニ乗リコムいのきトどいニ拍手ヲオクル。」なんて気の抜けた改変をするくらいならいっそのこと北川透の忠告(?)を受けて、「猪木と土井に死んでもらいやしょう。」とでもやればよかったのによ。それから瀬尾は、藤井の詩「『引き続く物語』に引き続く」を引用して、「主格の連続性を棄てたがゆえの豊饒」なぞと持ち上げているのだが、その気持ち悪い詩のどこが豊蟻なのかという疑問も当然わいてくるはずであり、瀬尾もそうは言ってみたものの心の底では豊饒などちっとも感じていないのがすぐわかる。続けて、「(藤井のように主格の連続性を棄ててしまえば)どんなに安楽に暮らしていても苦しんでいる人たちの身になって語ることができ、全共闘を呼び戻すことも湾岸戦争に熱狂することも許されている。」と半ば呆れながら皮肉を述べているくらいなのだから。しかし、わしが呆れるのは瀬尾の方にだ。彼は、藤井の「言論の自由」を前にすると、自分たちはいまどんな言論の拘束や抑圧に耐えているかに気づかされると述べ、彼らがこんなに不自由なのは、「主体を信じ、主体の連続性を信じているからだ。」と嘆いている。ほんまに教授詩人ってのんきやね。これまでの人生でその程度の拘束や抑圧しか受けてこなかったんだろうね。しあわせな人生よ! 「主体」の呪縛というものから自由になったとして、そんな自由が一体何になるというのでしょう(笑)。