ノイッシュ

ティルテュ
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい、あなた」
お互いの顔を見て、微笑んでそれから、『行ってらっしゃい』の口づけを頬に。
夫が出かける前に可愛らしい妻が、いつもそうしている習慣みたいなものだった。
「アーサー、お母様とティニーを頼むよ」
「うん!!」
母親の足元で、母親の前掛けにしがみつく様にして、父親を見上げる少年は元気よく返事をした。それから、母の腕に抱かれている生まれてまだ間もない幼い妹・ティニーを見上げた。
出かけていく夫―ノイッシュ―の背中を可愛らしい妻―ティルテュ―は、見えなくなるまでじっと見送っていた。
「さあアーサー、また雪が降りそうだからお部屋に戻りましょ」
「はーい」
「お母様はこれからお片づけするから、大人しくしていてね」
「ボクご本読んでるから平気だよ」
「そうね、それじゃあティニーを見ていて…」
もらおうかしら。
そう続けようとした時、ティニーが俄かにぐずり出す。
「ふェ…」
「あらあら、ティニー? どうしたの?」
「ティニー?」
これじゃあティニーをアーサーに見てもらう事は出来ないわね…。
ティルテュは苦笑いして、近くに住む世話好きのおばさんからもらったおんぶひもを使って、ティニーをおんぶした。
「いい子ね、ティニー。いい子、いい子ね」
「かあさま、ティニー泣きやんだよ」
ぐずっていたティニーが母親の背中で小さな寝息を立て始めている。
「あらあら、おネムだったのね…。アーサー、ここはいいからお部屋にお戻りなさい」
「はーい」
アーサーは母親の手の甲に父親のマネをしてキスをする。
「あら」
「へへ…」
少し照れくさそうに笑って、アーサーは部屋に戻っていった。
* * *
「ふう…大体片付いたわね…って…あら?」
少し前まで4人で囲んでいた食卓。
その食卓と1揃いの椅子のうち1つに、大きな外套がかけられていた。
「やだ!! ノイッシュったら、外套忘れてったの!?」
幸い、今日はまだ雪になる気配はない。だが日が暮れれば寒さは相当厳しくなる。
ここは、シレジアなのだから。
「あーん、どうしよお……」
「ッくしゅ!」
背中のティニーが可愛らしいくしゃみをする。ティルテュ自身は今まで動いていた為それほど寒さは感じないが、うまれてまだそれほどたっていないティニーにはやはり寒かったようで。
「ああゴメンねティニー。…じゃあ、コレ借りちゃおうね」
椅子の上からノイッシュの外套を取り、ティルテュはバサッと背中に羽織る。
ティニーも父親のにおいに安心したのか、キャッキャッと笑い出した。
「ティニー分かるのね。そう、コレはあなたのお父様の外套なのよ」
「あー、あー」
「嬉しいのねティニー。…この外套ね、お母様大好きなの」
ティルテュは外套の端をキュッとつかんで。
誰に聞かせる訳でもなく、1人、歌う様に思い出を語り始めた。
「このコートはね、ノイッシュが私に掛けてくれた思い出の外套なんだよ」
「あー、あー」
ティニーの機嫌がいいのに安堵しつつ、ティルテュは独り言を続ける。
「神父様とシグルド様がお話してて、1人で私待ってたら、さっきのあなたと同じ様にくしゃみしちゃってね……」
* * *
「くしゅん!!! …う〜、寒いっ。もー神父様ったら、ティルテュみたいな可愛い女の子を1人で外に待たせるなんてどうかしてるわ!! …っくしゅ!!」
「あれ? ひょっとして、フリージ家のティルテュ公女様ですか?」
名前を呼ばれて、ティルテュは寒さに震えながら振り向いた。
紅い肩当てに金の十字…シアルフィの聖騎士団の紋章。ティルテュは、彼に見覚えがあった。
「へ? …っくしゅん! あ、あなた、確かシグルド様の、騎士の…っくしゅ!! の、ノイッシュさ…っくしゅ!!」
「ああっいけません、良かったら、これを」
ノイッシュは自分が羽織っていた大きな外套をティルテュに掛けてやる。
「お肌を汚す無礼、お許し下さい」
「う、ううん!!」
「神父様をお待ちなんですね。そこは冷えますから、良かったらこちらの方がいいですよ。この壁のそばなら、風を遮ってくれます」
「うん。そうするね」
「では公女、失礼いたします」
うやうやしく1礼をして仲間達の所に向かおうとするノイッシュに、ティルテュは外套のお礼もロクに言えないまま壁のそばに立ち尽くしていた。
* * *
「フフフッ、何だか懐かしいなァ…みんな…」
いつの間にか背中のティニーは眠ってしまっていた。
「まだそれほどたってない筈なのに…。…だ、ダメだなぁ!! 年取ると、涙腺弱くなっちゃって。へ、ヘヘヘッ」
首を左右に振って。悪い考えを懸命に払おうとするティルテュ。
そんな時。
コツ、コツ。
出入り口の扉が、ノックされた。
「あ、外套忘れたのに気づいたのね。全く、意外とオッチョコチョイなんだから…」
この時ティルテュは1つだけ間違いを犯した。
ノックした人をそれまで楽しい思い出に浸っていた事と、ノイッシュが外套を忘れたと言う出来事から自分の夫だと勝手に決め付けている事に、彼女は気付いていなかった。
「今持って行くから、待っててね!! ノイッシュ!!」
羽織っていた外套をウキウキとした表情で脱ぎ、左手に掛けて玄関へと軽い足取りで向かうティルテュ。
「お待たせ、ノイッシュ」
彼女は玄関の扉の取っ手に手を掛けて……。

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