このたび、長らく住み着いていたAOLブログが2009年1月31日をもちましてこの世から完全消滅することとなり、晴れて2009年1月5日、無事こちらteacup ブログに引越し致しました。 記事内のリンクなどはAOLブログ当時のままでありますので、現在辿り着くことが出来なくなっております。 「このブログを検索」欄にチェックを入れ、検索ワードを入力してから「ブログ検索」をクリックして頂きますと、お探しの記事に辿り着けるかと思います。そして、お手数ではありますが、ブックマークなどの置き換えをして頂けましたなら、わたくし、涙が出るほど嬉しゅうございます。

2009/11/13  15:49

昭和の下宿あれこれ 54  昭和な話

新聞と同じように・・というかそれ以上に、ラジオから得る情報も、昭和の下宿生たちにとっては重要な位置を占めていた。

特に、田舎出身の学生が、生まれて初めて関東圏で下宿した場合のラジオに対する驚き具合はほぼ共通であった。

特に、今まで田舎で愛用していた自分のラジオから、FM東京やニッポン放送、文化放送などなどの番組が流れてきた感動はひとしおである。

昭和の田舎の学生ならばきっと、中学・高校時代の真夜中、ラジオのダイヤルを四苦八苦しながら遠い遠い電波を探り、そこから微かに聴こえてくる 『オールナイトニッポン』や 『セイ!ヤング』 に心ときめかせ、ラジオに耳をピッタリ貼り付けながら関東圏に思いを馳せたに違いない。

それが、真夜中でなくとも真昼間から高感度で聴けるのであるから、これが感動でなくて一体何であろうか!

・・が、逆に、関東圏から田舎の下宿生となってしまった当時の学生たちの落胆ぶりは如何ばかりであったろうか・・・



ちなみに甲府は、関東圏といっても四方八方山に囲まれていたせいか、それほど感度は良くなかったような気がしないでもないでもないでもない・・(どっちなんだよっ!)。



                つづく



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2009/11/12  15:57

昭和の下宿あれこれ 53  昭和な話

で、その新聞名がまた田舎出の小娘を興奮させた。

それは、

『読売新聞』

これのどこが興奮モノであるかというと、
読売=読売ジャイアンツ=都会
という図式。

なにしろ自分の生まれ故郷では、『新聞』 といえば 『○日本新聞』 という地元丸出しの新聞をとるに決まっていたのである。
おそらく当時、実家の町内で『読売新聞』 などという洒落た新聞を購読していたご家庭は、皆無であったと思われる。(現在は違いますけどね)

おお、読売新聞が毎朝自分のもとに届けられる!

そう思っただけで、自分がいよいよ関東圏へ進出したことを実感したのであった。

平成の子らと違って、Webの存在など陰も形も無かった昭和50年代中期、新聞は、テレビすらろくに映らない当時の下宿生たちにとって、かけがえの無い情報源のひとつだったのである。


・・はずなのだが、不思議なことに、ちゃんと読んでいたのかどうかに関しては全く覚えていない。



           つづく




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2009/11/11  15:36

昭和の下宿あれこれ 52  昭和な話

が、殆ど使わないにしても、自分専用の電卓をただで手に入れたことは、私を有頂天にさせた。

この場合、有頂天にさせる要素は二つある。

まず一つは、自分専用の電卓である、ということ。
そしてもう一つは、それをただで手に入れた、ということである。

電卓のどこが嬉しいのかと疑問に思われるかもしれないが、当時は確かに嬉しかったのである。
現に、早速、「新聞とったら電卓がおまけについてきた」の巻を親や友人たちに話すと、決まって返事は、「へえ〜すごいなぁ!」だったのであるからして、当時それがどれほどすごいことであったは充分ご理解頂けることであろう。

そして、『ただで』という点。
これは、初めて自分が世間から一人前の大人として認められたような気にさせてくれたのである。

つまり、田舎から出てきた18やそこらの小娘なら「新聞一か月分無料にしますよ〜」程度のことで充分騙せたはずなのに、そこへ更に魅惑の『電卓』 を上乗せした、これ即ち、一人前の大人への対応、なのである。

※(注)全ては本人の錯覚か?といったご意見は一切承りません※

そんなこんなで思いがけず新聞をとることとなったのだが、これとて人生初めての経験。
なにしろ、自分一人のためだけに新聞が毎朝届けられるのであるから。

今まで、新聞といえば、ほぼ父の独占品であった。
よって、自分が読む頃にはもう既に紙はヘタヘタヨレヨレ。

それが、毎朝、新品のインクの香りを乗せて我がもとへやってくるのだから、こりゃもう堪らんのである。



            つづく





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2009/11/10  16:15

昭和の下宿あれこれ 51  昭和な話

一人暮らしの醍醐味は、室内のものは何でも独り占めできる!ということである。
とはいえ、昭和の下宿・・ろくに荷物も置けない極狭空間。
それでも、確かに一城の主には違いないのであった。

で、その一城の主の下、驚いたことに、新聞勧誘人がやって来たのである。
中に人間が住んでいようなどとは、外部からは絶対に気付かれないはずであるにも拘らず・・

が、転居届けも未提出の引越し数日後、何の前触れもなく彼は突然やって来た。

「新聞とって下さいよぉ」

年齢不詳の怪しい中年男性である。

「一か月分サービスしますからぁ」

オッサン、手にした新聞を高く掲げる。

そして、オッサン、袋からにわかに取りい出したるは・・・

「これ、サービスに付けときますからさぁ」

なんと!それは!!

1970年代後半、ようやく一般にも普及し始めたかと思われる 『電卓』 であった。
これは、言うまでもなく、『電子式卓上計算機』 のことである。

あれは確か小学校四年生の頃だったであろうか、算数の『そろばん』の授業が、風邪を引いて学校を休んでいる間にまるまる終わってしまっていた!という哀しい事件以来、そろばんが出来ないことに異常なまでのコンプレックスを抱き続けていた私、である。

こんな私が、目の前にぶら下げられた餌・・否・・景品である電卓に、心動かされぬわけが無い。

「わかりました。とります」

思わずそう応えてしまったのだが、新聞一ヶ月サービスよりも、電卓をもらえたことがただひたすら嬉しかった。
微かな記憶によると、それはシャープであったかに思う。
ボタンの仕様も数字の表示も、現在のものと比べたら随分扱いにくいものではあったが、何しろ数字を打ち込めばご名算〜なのであるからこりゃ堪らん!

しかし、考えてみたら、国文科。
計算機使用の機会は特に無かった・・。




              つづく





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2009/11/9  21:25

昭和の下宿あれこれ 50  昭和な話

ところで、話のついでにひとつ付け加えておくが、当時の『ステレオ』 とは一体どういったものであったのか、これは、平成生まれの子どもたちにとってはなかなか理解し難いものであるようだ。

それは、我々年代にとって蓄音機を想像し難いというのと同等かあるいはそれ以上であろう。

考えてみれば、『ステレオ』とは、何とも不思議な名称である。

当時はまだ、『オーディオセット』 などという洒落た呼称は無かったので、『ステレオ』 と言ったら『ステレオ』、つまり、『モノラル』に対しての『ステレオ』なのである。

早い話が、音が右と左に分かれている・・ということで、当時、左右から別々の音が聴こえてくるなんざ、実に画期的なことだったのである。

で、引越しのお供にステレオセットを加えたわけなのだが、下宿に到着し真っ先にそれを荷解きし、コードを繋ぎ、いざレコードに針を落とし、さあ聴くぞ!という段になって身構えたところ、なんとプレーヤーのターンテーブルがうんともすんとも動かないのである。

接続をやり直そうともコンセントを入れ直そうとも、何をやっても動かないのである。

手っ取り早く、隣接の国立大生に救いを求めてみたが、工学部精密機械科在籍だというのに、全く分からないと言うではないか!

こりゃもう、長距離の引越運搬の衝撃のせいで壊れたに違いない・・
と、相当気分が落ち込んだ・・というか、今後の下宿生活に早くも絶望したのであった。

しかしまあ、念のために電気屋さんに見てもらった方がいいだろうとのアドバイスを受け、早速来てもらったのである。

すると・・



「ああ、ここは周波数が違うからね」

「しゅ、周波数??」

と、ポカンとする私を横目に、いとも簡単に直して行って下さいましたとサ。


18歳にして初めて、同じ日本でも電気製品がそのままでは使えない土地があるのだ、ということを学んだのであった・・。




            つづく






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2009/11/8  20:19

昭和の下宿あれこれ 49  昭和な話

方や、自分自身はどうであったかというと、ベッドなどにはまるで興味無し。
・・というか、天井の低さも加えての室内空間の異常な狭さゆえ、ベッドどころではなかった、というのが実情である。

では、一体何にこだわっていたのかというと、『ステレオ』 である。
それも、現代のような高性能コンパクトタイプではなく、当時の最もオーソドックスなタイプ・・程々に大きい、EP/LPレコードプレイヤー+チューナー+スピーカー(左右)であった。

これは中学校卒業後・・高校入試突破の暁に購入したものなのだが、とにかくもう、どんなに部屋が狭かろうとも、自分にとってこれだけは絶対に外せない引越荷物であった。
勿論、それに付随してお気に入りのLPレコードも50枚以上ダンボールに詰め込んできた。

何は無くともまずはMUSIC!なのであった。

独自の調査によると、当時、ステレオは下宿男子にとってはほぼ100パーセントに近い必需品であったが、下宿女子にとってはさほどでも無かった。

女子の場合、むしろテレビの有無が重要だったかもしれない。
とはいえ、下宿という特殊形態・・つまり室内アンテナのみの厳しい環境のため、映りは決してパーフェクトではなかった。

ちなみに自分は、後に小さな中古白黒テレビを格安で譲り受け、ようやく文化人に一歩近付いたかに見えたが、やはり当時の室内アンテナテレビには大いなる限界が存在し、にわか文化人は撃沈するのであった。(しかも白黒って・・)



            つづく





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2009/11/7  23:03

昭和の下宿あれこれ 48  昭和な話

そのようなワケで、如何に不便極まりない下宿環境であっても、昭和の学生たちは自分が不幸だなどとは全く思っていなかった。

が、一方、そうした中でも各々絶対に譲れないこだわりというものも持っていた。

例えば、男子学生にとってのそれは 『ベッド』 だったりする。

「ベッドは男のステータスシンボルだ!」
と、当時の男子学生の皆が、密かに思っていたのである。

とはいえ、世間で言うまともなベッドなどなかなかそう簡単には手に入らない。
そこで、或る者は古雑誌や古新聞を畳みに積み上げ、それをベッド状に平らに均(なら)し、その上にシーツをすっぽり被せて布団を敷き、『ベッド』 と称した。

また或る者は、酒屋から空のビールケースをいくらか譲り受け、それらを土台にして 『ベッド』 と名付けた。

そしてベッドのある生活を夢見てひたすらバイトに励み、本物のベッドが狭い部屋を占領した時、
「これで俺もようやく男になれた!」
と、感慨深い勘違いをするのである。

まあ、ベッドと言ってもせいぜい簡易ベッドの類なのだが、それでもベッドはベッド。
汚い畳に敷きっ放しのセンベイ万年床とはまるで趣が違うのである。

・・もしも・・もしも、彼女が出来て、
もしも・・もしも、彼女がこの部屋に遊びに来たら・・・

こ、このベッドに・・彼女と二人・・並んで腰掛けて・・
そ、そ、そしたら・・あわよくばベッドに押し倒して・・


・・・と、ベッドが入ったその日から、男子学生の妄想は広がるばかり。

彼らのステータスシンボル、『ベッド』 がもたらす妄想は、汚い畳に敷きっ放しのセンベイ万年床では絶対に浮かばない妄想なのであった。



            つづく





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2009/11/6  15:43

昭和の下宿あれこれ 47  昭和な話

なぜだか分からんのだが、昭和の下宿は、不便であればあるほど自慢の種であった。
現に、我が下宿を訪れた者の全部が全部、
「おおーっ!!」
と叫んだものである。

これは、正真正銘、賛辞の叫びである。

もしも・・もしも仮にあの時代、学生がキッチン・バス・トイレ・冷暖房・電気器具完備の部屋に下宿していたとしたら・・・

おそらく、
「ざけんな!このやろー!!」
と、袋叩きに遭っていたことであろう。

実際、某私立大に通っていた友人は、当時の下宿にしては膨大な広さである十畳という部屋に下宿していたが、「贅沢な!」「アホか!」と、周りから散々なことを言われて続けていたのである。

学生時代は苦労してなんぼのもんじゃ!!
というのが、昭和の常識。

『若いうちの苦労は買ってでもせよ』
という考え方が、昭和の親世代には浸透していたのである。



       つづく





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2009/11/5  20:27

昭和の下宿あれこれ 46  昭和な話

部長は、静岡出身であった。
さすが部長!といった具合の大変面倒見の良い素敵な先輩で、下宿にお邪魔することになったときは、後輩としていささか緊張したものである。

「ここなのよ」と言われ、見てみると、入り口がシャッターで閉ざされている。
ザザザーっとおもむろにシャッターを開ける先輩。

中はコンクリート打ちっぱなしのただっぴろい空間。

「えっ?ここなんですか?」
といぶかる私に先輩が、
「ちがうちがう、ここの二階ね」
と、指差す先に目をやれば、ちゃちな掛け梯子(はしご)のような階段が・・。

先輩の後に続いてよじ登ると、その先には小さなドア。

「ええーっ!まさかここが部屋?!」

真っ暗闇の部屋に灯りをともすと、確かにそこには小さなベッドと机が・・

「セ、センパイ・・」

「ああ、ここね、本当は倉庫なの。一階のガレージが大家さんとこの駐車場。で、二階は倉庫だったんだけど、特別に部屋として貸してもらってるの」

「と、特別にって・・」

さすが倉庫、窓が無い。

「で、センパイ、顔なんかはどこで洗うんですか?」
「ああ、ガレージの隅にちっちゃい手洗い場があるから、そこでチョコチョコッと」

毎朝、ハシゴのような階段を上り下りして、そんなちっちゃい手洗い場で洗面デスカ・・
しかも、いつなんどき入庫するやら出庫するやら分からん大家の車の排気ガスも吸いつつ・・

が、先輩はただ笑っているだけだった。
それが何か?という顔をして。

これぞ昭和の下宿、真骨頂!

          

            つづく





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2009/11/4  23:10

昭和の下宿あれこれ 45  昭和な話

昭和の下宿の良い点は、格差が少ないということである。
当時、数々の先輩や友人たちの下宿にお邪魔したが、設備に関しては五十歩百歩と言ってよいのではなかろうかと思う。(床上浸水や虫の出没頻度、冬季彫刻家に成るか成らないか・・などは別として)

少なくとも、現在、平成の学生たちに人気の冷暖房完備・キッチン・バス・トイレ・電化製品付きなどという物件は皆無であったから、自分だけが恵まれていないなどと嘆く必要は全く無かったのである。

それぞれが皆、相当不便な中、それぞれがそれぞれの工夫をしながら学生生活を送っていたのである。

むしろ、下宿がユニークであればあるほど友人ウケは良かった(単なるウケ狙い)。

そういった意味で、いまだ想い出すのが部活の先輩(女子)の下宿である。
四畳半フォーク的部活の部長であったその先輩の部屋に初めて案内されたときの不思議な感覚・・それは、『衝撃』 とはまた違った本当に不思議な感覚・・・

部屋に入るなり、

「セ、センパイ・・こ、この部屋は一体?!」

と、思わず叫んでしまったのである。



       つづく




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2009/11/3  18:42

昭和の下宿あれこれ 44  昭和な話

『居直る』 といえば、雪が積もった日もそうであった。

雪などめったに積もらない土地であるはずなのに、年に2度ほど驚かされることがある。
めったに積もらないということは、めったに備えもしないということで、それこそ街はパニック状態である。

ところが、自分自身はもともとが雪国出身なものだから、案外平気で普段通り自転車通学を決行しようとしたりするのだが、なにしろやはり長靴の持ち合わせが無いということは致命的で・・

しかし、このような場面に於いても『居直る』 ということは非常に重要なことで、またもや例の厚底サンダルを素足につっかけて自転車にまたがるのであった。

これ、非常〜に寒い。

しかし、昭和四畳半フォークのヒロインは、みすぼらしければみすぼらしほどカッコいい!と信じて疑わなかったのである。

ということは、我が下宿の相当なみすぼらしさも、案外自分としては 『昭和四畳半フォークのヒロインに酔える』 という点で、かなりの高得点だったのではなかろうか、と今にして思うのである。




               つづく




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2009/11/2  20:40

昭和の下宿あれこれ 43  昭和な話

いやもう塵も埃も、ゴキブリの死骸を載せた黒船でさえもどうでも良いのである。
こうなったからには、堂々と胸を張って見事に湖を横断してやろうではないか!

『居直る』 とは、生き延びるための重要な能力である、とそのとき学んだのであった。

その翌日、雨は止み、空はウソのように晴れ渡った。
そして湖もウソのように引き、残されたのは、ヨレヨレになったゴキブリほいほいと泥交じりのコンクリート床。

その間、大家が惨劇の様子を見に来た気配もなく、数日後にはカラカラに乾ききったゴキブリほいほい、そして、同じくカラカラに乾ききった泥が、コンクリート床を白く覆っているばかりであった・・。

そんな惨劇が、二年間のうちにあと2回ほど繰り返され、そのうちゴキブリほいほいの原型も相当怪しくなり、存在位置も最初に仕掛けた場所からあちこち移動し、それでもとうとう最後まで始末し得なかったのは、一種の深い愛着からであったろうか・・・


(いや、単に面倒なだけだ)



            つづく



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2009/11/1  14:04

昭和の下宿あれこれ 42  昭和な話

躊躇しているような場合ではない。
とにかくここを渡らないことには授業に遅れてしまう。

当然のことながら、素足にその厚底サンダル、そしてジーンズのホットパンツという汚れても良い定番スタイルで湖に挑んだのである。

そろりそろりと歩を進めるごとに揺れる湖面・・

湖面・・湖面・・・


・・えっ?!


丁度真ん中あたりに差し掛かった頃、突如目の前に現れたのは・・・

いつの日にか仕掛けた、あの懐かしき・・・


・・・ゴキブリほいほいであった。


それはまさに、湖面に浮かぶ異様な黒船。
乗組員は勿論、大小無数のゴキブリたちである。
それらは、あたかも海賊との戦いに敗れたかのような無残な死体を暗い船内に残していた。

かと思えば、あちらこちらに、舟から投げ出されたかのような死体も・・・


おお!
我は今、この床上浸水という湖に於いて、ゴキブリの死骸たちと共に環境を分かち合っているというのか!

そしてよくよく見れば、かつてコンクリート床に山積していた塵・埃全てが、この湖をクラゲの如く我が物顔に浮遊しているのであった・・。



           つづく




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2009/10/31  17:41

昭和の下宿あれこれ 41  昭和な話

水深約15cmといったところであろうか、長靴さえあればなんとか渡れそうな深さなのだが、何処をどう探してみたところで、そのようなものは見当たらない。

ここはもう居直るしかないのだが、それでも、多少なりともこの湖に抵抗したい。

そこで登場するのが、当時流行の厚底サンダルである。

『厚底サンダル』 というと、ひょっとしたらギャル系を思い浮かべるかもしれないが、ここでいう厚底サンダルは、それとは全く種類が異なるので要注意だ。

まず第一に、それは男物である。
サイズは26〜27ぐらいであったかと思う。
自分のジャストサイズは23.5〜24だが、めちゃ大き目のをつっかけて履くのがイキだったのだ。(と思っていたのは自分だけだったかもしれない)

そして第二に、その厚底というのは、ただ単に、男物の簡易サンダルの底に分厚いラバー部をつま先から踵まで全く同じ厚さでベターッと貼り付けてあるだけで、要するに、背の小さい男性が台の上に乗って身長ごまかしてます的な上げ底サンダルなのである。

そしてちなみにそのサンダルは、彼氏から奪い取ったものであった。(彼は背が小さかったんだねぇ)

そしてそして更に言うと、そのサンダルは、私が夏場のステージに頻繁に使用していたものであった。(ジーンズの超〜〜ミニマムホットパンツに厚底サンダル、という過激な??出で立ち・・いや、実は授業にもそのような格好で出没していた。単なる貧乏人ファッションとも言う)

さて、前置きが長くなってしまったが、このようないわく付き厚底サンダル・・厚さ10cm以上は当然あったか・・を駆使して湖を渡ることにしたのである。



          つづく





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2009/10/30  15:46

昭和の下宿あれこれ 40  昭和な話

が、ゴキブリほいほいで大猟だったからといって、容易に滅亡しないのがゴキブリ脅威の生命力の証である。

次から次へと生まれいづるゴキ・・

夏が過ぎ、秋が来る頃には、もうコオロギだかゴキブリだか分からない。
両者の違いと言えば、単に鳴くか鳴かないかだけなのではないか、だととしたら、メスのコオロギはゴキブリとなんら変わりはないのではいか・・などと考察するに至ったのである。

ゴキブリだけが嫌われるこの理不尽さ・・。

そう気付いて後、もうゴキブリを追うことはやめた。
無理して追わずとも、暖房器具の無い極寒の季節が追ってくれるのであった。

ところで、酷暑・極寒の盆地にも、たまには雨が降るのである。
めったに降らない地域であるがゆえ、雨具の備えについては随分おろそかで、傘すらろくに持っていないということに、雨が降って初めて気付くのである。

が、世の中には、神という有難き存在がちゃんといるものだ。
その日の朝、近所のゴミ捨て場に行ってみると、骨が一部折れた黒いこうもり傘が捨ててあるではないか!
神のお恵みは素直に受け取るのが良い。

そのまま、それをさして学校へ行った。

ボロTシャツ・ボロジーンズを身にまとい、オンボロ傘をさしてオンボロ中古自転車にまたがり登校する女の子・・ああ、なんてカッコいいんだ!

・・・と、気分はまさしく四畳半フォークのヒロイン。

さて、酷暑・極寒の盆地にも、たまには大雨が降る。
朝、トタン屋根を打つ激しい雨音に目覚め、雑巾洗い場に顔を洗いに行こうとしたところ、なんと、あの10畳ほどのコンクリート床の雑巾洗い場が全面湖状態に・・

見事な床上浸水である。

幸いなことに、自分の部屋はそこから一段上がったところだったので被害は無かったのだが、とにかく、顔を洗うどころではない。
なんとかその湖を渡って、学校へ行かねばならないのである。
傘の御恵みは受けたが、長靴などというものまではさすがに神は面倒をみてくれない。




              つづく






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