このたび、長らく住み着いていたAOLブログが2009年1月31日をもちましてこの世から完全消滅することとなり、晴れて2009年1月5日、無事こちらteacup ブログに引越し致しました。 記事内のリンクなどはAOLブログ当時のままでありますので、現在辿り着くことが出来なくなっております。 「このブログを検索」欄にチェックを入れ、検索ワードを入力してから「ブログ検索」をクリックして頂きますと、お探しの記事に辿り着けるかと思います。そして、お手数ではありますが、ブックマークなどの置き換えをして頂けましたなら、わたくし、涙が出るほど嬉しゅうございます。

2011/10/1  19:20

老母の行く末 27.お金に勝るもの  両親のこと

「わしはもうお金もなんも持たんから、あんたにしてあげれることはなんも無い・・。『ありがとう』言う以外なんもできん・・」

母が私に向かってたびたび発するセリフである。
そのたびに、母は寂しく悲しそうな表情をする。

母が転々としてきた病院や施設は当然のことながら現金の持ち込みは禁止である。
いや、それ以前に、いつの間にか母の通帳や現金は全て兄夫婦が管理するようになり、年金がいくら入っているのかすら母には全く知らされていないのだった。

「わしの通帳に入っとる中からちょっこでもいいからお金下ろしてあんたにガソリン代ぐらい渡したい思うとるんやけど、そんなことすら出来んようになってしもうて・・」

父が亡くなって以来、家庭内での母の立場は一気に悪くなっていた。
兄夫婦に遠慮しながら生きなければならない日々が、母の精神を蝕む。

残された人生の意義など何も見出せない。

母だけではない、おそらくこの老人介護施設に入っておられる方々全てが 『生きがい』 を失っているのであろう。それは、目を見れば分かる。

しかし、介護士の方々は真摯である。
リハビリ、入浴、トイレ、食事の世話・・
瞳の輝きを失った老人たちを決して見捨てはしない。
それが仕事だからといえばそれまでなのだが、彼ら彼女らによって家族がどれほど救われているか知れない。

そして、そのリハビリのひとつである手芸によって母の気持ちもまた救われている。

「わしにはお金も何もないから、あんたにはもうなんもあげられるもんないけど、その代わりこれ、わし一生懸命作ったんや、あんたにあげよう思うて、リハビリの時間に一目一目ちょっこづつ作っとったんや。ようやく出来上がったからこれあんたにあげるわ。わしの感謝の気持ちや」

そういって手渡してくれたのは、紫色のラメ糸を濃淡に継いで刺した縦横13センチほどの小物入れだった。

老眼の目で、震える指で、一心に作り上げた母。
その気持ちを思うと、愛おしい。


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蓋を開けた状態

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2011/8/30  21:29

老母の行く末 26.徳積み  両親のこと

「ようおいでなさったなぁ」

施設の食堂に行くと、母の向かい側に座るお婆さんがいつも私に声を掛けて下さる。
(『お婆さん』といっても、実際には母と同い歳なのでそのような呼称は失礼なのだが)

「毎日ようおいでなさる。感心やなぁ」

いえいえ、そんな・・と返事をすると、

「あんたなぁ、これはなぁ、『徳積み』言うもんやで」
「徳積み?ですか?」

「そうや、徳はなぁ、あんたのお子さんやお孫さんやそのあと代々まで伝わるええもんや」
「はあ・・そんないいもんですか?」

「そうや。親を大切にするいうことは、徳があるんやよ。これからも親孝行しなされや」
「あ・・、は、はい・・」

『徳積み』という言葉で、そういえば・・と、或る人物を思い出した。
それは、この施設に入所する前に入院していた精神科病院の看護師さんである。

或る日、大の粗相をして下着を汚してしまった母が困惑していると、その看護師さんがいち早く気付いて、「今すぐ私が洗濯してあげますよ」と笑顔でおっしゃり、本当にすぐに洗って干して下さったのだそうだ。

後日母からその話を聞いて、早速その看護師さんにお礼を言うと、

「気になさらないで下さいね、当然のことをしただけですから。お母様は、昨年亡くなった私の母と同い年なんですよ。なんだか自分の母のような気がして・・親孝行のつもりでやらせて頂きました。それに親孝行って、徳積みになるんですよ。だからこれが自分の子どもたちにも伝わるんじゃないかなと思って、ネ」

と、舌をペロッと出して笑われた。

なるほど、親孝行とは『徳積み』なのである。


・・となると、
こういうのは如何だろう。

『徳のポイント制度導入』

例えば・・
母の洗濯物1点に付き1ポイント進呈。
汚れ具合によっては2倍、3倍のスペシャルポイントプレゼント。

母を笑わせたらボーナスポイント追加。
そうそう、訪問1回に付き基本ポイントも当然ありだな・・などなど。

そんな風に考えると、

『母よ、汚れ物どんどん出してね。しかもとびっきり汚いやつを』

・・な〜んてことを思ってしまう単純な私なのであった。(笑)








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2011/7/3  1:14

老母の行く末 25.ダメな自分  両親のこと

先月、義母の妹と姉が立て続けに亡くなった。
僅か二週間の間に、仲良し三姉妹のうち真ん中の義母だけが残されてしまったのである。

二人とも癌だった。

それぞれ経過の違いはあるのだが、二人ともいつ亡くなっても不思議ではない状態が続き、周りの皆が不安と憂鬱の入り混じった日々を過ごしていた。

見舞いに伺うと、病室に入るなり、その日が近いことが直感で分かった。
が、その日が確定しているわけではないことに対して、言いようの無い何かどんよりとした重たい気分が湧き起こってくるのである。

これは実に不謹慎なことかもしれない。
心のどこかで、どうかその日が仕事などに影響の無い日でありますように・・と願っているような気がするからである。

・・そして、二週間のズレはあるものの、亡くなったのは共に土曜日だった。

亡くなった瞬間から、弔いに向けての慌しく且つ順序正しい細々(こまごま)とした儀式が進められ、そして周りの皆の日常がその時点で完全にストップするのである。

兄弟姉妹を亡くす・・その経験が無い私には、義母の悲しみを実際には理解していないのだろうと思う。
世の中にはもともと一人っ子の人すらいるのだから、などと考えるとますます良くない。

が、事実、義母はとても気を落としている。

本来ならば一番頼りになるであろう義母の夫はあいにく不仲である。

となると、義母を支えねばならないのは嫁である私なのではないだろうか。いや、もちろん、息子である夫もなのだが。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

休日の午後、自宅で仕事をしていると夫から電話があった。
「おふくろが冷蔵庫買いに行きたいって言ってるんだけど、付き合ってやってくれないか?」

瞬時、頭に浮かんだのは、「え?なんで?今は絶対に無理!」という冷たい思いだった。
提出締め切りが迫った大量の書類作成に四苦八苦していた真っ最中だったからである。

「ゴメン、どうしても今日明日で書類を進めなくちゃいけないから・・」

断ってしまった後の、何ともイヤな気分・・

こんな時、「書類なんて何とかなるさ。それよりもお義母さんを喜ばせてあげよう」と思うことが出来ない自分・・

なんてダメな自分なんだろう・・

その数時間後、夫からまた電話があった。
「姉ちゃんが一緒に行ってくれることになったからもういいよ」

こんな私を、義母はどう思っているだろう。

どうして、いつも自分はこうなのだろう・・
仕事が詰まってくると焦りしかない。
とても冷たい人間なのだ。

・・気が滅入って、とうとう母の所へも行けなかった。

最低である。







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2011/5/29  15:28

老母の行く末 24.幸せを観じる  両親のこと

4月1日、母は無事に精神科の病院を退院し、介護施設に入所した。

精神科での半年近くの入院生活は、その一日一日を想い返せば実に長いものであったが、今となっては、時間という名のマジックが、それらを『あっという間の出来事』にすっかり姿をすり替えてしまったように感じる。

末期がん患者と見まがうほどの衰弱ぶりだった入院当初、誰もが母のことをもう終わりだと思っていた。
いや、正確には、『私以外に』である。

絶対に母はよくなる!
絶対に母をよくしてみせる!
私が!!

この絶対的な強い想いのみが、私を母の元へと毎日通わせたのだ。
そして、誰も私に言ってはくれないし思ってくれてる人もいないのだけれど、私は、私だけは、自分自身にこう叫ぶのだ、

「母を救ったのは私です!」

・・もちろん、自分の心の中だけで。

「ねえ、このぐらいの自惚れは許されていいでしょ?」
そう自分に言い訳をして・・。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

介護施設での母は、最初は周りの方々と馴染めるか不安そうであったが、相変わらず通い続ける私の姿にホッと嬉しい表情を浮かべ、そして毎日母の話に耳を傾け、母も日記を書き続け・・
きっときっとこんな穏やかな生活が、さほど大した生産性は無くとも穏やかな生活が、これが今は一番の幸せなんだよと、母がようやく悟ってくれたような・・そんな気がしている。

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母が、施設での習字の時間に書いた作品である。

「失敗したから」
と、母がゴミ箱の中にくしゃくしゃに放り込んだものを私が慌てて拾い上げ、しわを綺麗に延ばして自宅に持ち帰った。

「お母さん、素晴らしい作品だよ!私、これ、部屋に飾っておくからネ!」

母が照れ笑いをした。







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2011/4/24  16:30

老母の行く末 23.再び、生きる  両親のこと

1月9日から始まった母の日記が続いてやがて1ヶ月となる2月初頭、母の86回めの誕生日がやってきた。

毎回プレゼントに頭を悩ます私であったが、今回ばかりはハッキリと気持ちが決まっていた。
まともな本など全く読んだこともないであろう母、蔵書の一冊すら持ち合わせていないであろう母、そんな大の読書嫌いの母に、敢えて一冊の本を贈ろうと決意したのである。

もしかしたら、「こんな要らんもんくれて!!」と、眉間にしわを寄せ睨み付けてまた罵(ののし)られるかもしれない・・
決意したにもかかわらずそんな不安が常に頭をよぎった。
が、そのたびに、「いや、いいんだ、たとえなんと罵られようと絶対に読んで貰いたい!一句でも、いや一字でもいいから!」と打ち消した。

書店でプレゼント用にラッピングしてもらい、仕事帰りの雪降る夕暮れ、母のいる病院へと急いだ。

「お母さん、誕生日おめでとう!はいこれ、プレゼント!」
母に手渡すと、パッと表情が明るくなった母であったが、私は心の中で「どうかどうかこの表情を曇らせないで・・」と神に祈る思いであった。

そして、母が包みを開け終わるか終わらないかの間際に、大急ぎで言い訳をした。
「お母さん、これね、本なんだけどね、絶対にお母さんに読んでもらいたいなぁと思って、これ、絶対にいいから、字も大きくて読みやすいし、ほら、難しい言葉も使ってないしね、なんと、99歳の普通のおばあちゃんが書かれた詩を集めた本なんだよ、きっとね、お母さんも共感できる詩があると思うんだ、ね、一日ひとつずつでもいいから読んでみたらいいよ、無理して一気に読まなくてもいいから、ね、体調のいいときに少しずつでいいから、ね」

矢継ぎ早の私のセリフが終わった後、母は本を見つめ、
「果たして読めるかどうか分からんけど・・」
と、取り敢えず「ありがとう」という言葉をくれた。

  ・・・・・・・・・・・・・・

翌夕、またいつものように母の病室へ入ると、母が珍しくベッドサイドに座っていた。
いつもならベッドに横たわったまま辛そうに目を閉じている母である。

「あ、もうこんな時間やったんやね」
私の姿を見つけて母がこう言った。

「あんたが昨日持って来てくれた本読んどったら時間忘れとったわ」

なんと母は、夢中になってもう半分は読んでしまったというではないか!

「今日看護師さんが、『私にも貸して〜』言うから貸してあげたら、『この本読んだら涙出てきたわ』言うとった。わしもやっぱおんなじや・・」

その翌日には全て読み終え、その後何度も繰り返し読んだという母。

「この本読んで、わしも柴田さんみたいにがんばって生きたい思うた。こんなとこでくじけとったらあかんのや。早く元気にならんなんから、出されたごはんもがんばってちゃんと全部食べよう思うとる」

そしてこの日から母は、私と一緒に杖をついて病室の廊下を歩く練習を始めたのである。
一歩一歩に想いを込めて・・

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   くじけないで

  ねえ 不幸だなんて
  溜息をつかないで

  陽射しやそよかぜは
  えこひいきしない

  夢は
  平等に見られるのよ

  私 辛いことが
  あったけど
  生きていてよかった

  あなたもくじけずに


    『くじけないで』柴田トヨ 著 より



 
3

2011/3/30  20:37

老母の行く末 22.新たな挑戦  両親のこと

母の寒中見舞いの文面を見た瞬間、「もしかしたら・・」と、ひとつの新しい可能性が閃(ひらめ)いた。

『これが砂糖でしたらどんなだろう?
とロマンチックに思います』


降り積もる雪を砂糖に見立て、そしてそのことをロマンチックに思う感性・・

末期の病床にあっても傍らには必ず本を携えていた読書好きの父に比べ、本を読んでいる姿など一切見掛けなかった母である。それがまさかこのような表現をしようとは・・

詩・・は無理かもしれないが、他愛も無いことを書き綴る日記ならばなんとかいけるのではなかろうか・・

そんな期待を込めて、母に打診してみた。

「ね、ね、お母さん、このノートまだまだたくさんページが空いてるしさ、なんか思ったことでもなんでもいいからさ、一言でもいいからさ、日記みたいにして書いてみようよ。そういうの残してくれたら私も嬉しいしさ。リハビリだと思ってさ、ちょっとやってみない?」

すると、寒中見舞いを無事に完成させた達成感からか、日記への意欲も見せてくれた。

「あのね、何を書こうかなぁってまず脳で考えるでしょ。そしてその脳で考えたことを指先の神経にまで伝えて、その伝わったことを実際に指先の運動機能を使って紙に書く・・これって素晴らしいリハビリなんだよ」
「ほう、そうなんかいね」

そして始まった第一ページ目の日付、それは、寒中見舞いの消印と同じ、1月9日であった。

横書きは縦書きに比べ、思いのほか手が震えて書き辛いようではあったが、それでも母はリハビリを意識しているようで、横書きを貫き通した。

二日目、三日目、四日目・・最初の頃は2、3行で精一杯であったが、だんだんと行数が増えていった。
まずはその日の天候に始まり、次に昼間あった出来事や思ったことなどであるが、母が毎回必ず記してくれたのは私への感謝の気持ちであった。

今までも、母の口から発せられる言葉としての『ありがとう』はあったが、文字として見る『ありがとう』はまた格別であった。

『今日も会いに来てくださって、涙が出るほど嬉しいです。本当にいつもありがとうね。』

我が子に対して 『くださって』 とは何だかこそばゆいような気もするが、母が言うには、私に対する強い感謝の念がそのような表現を使わせるのだそうだ。

雪が降れば降ったで、
『こんなに雪がひどいのに、来てくれて本当にありがとうございます。嬉しくて涙が出てきます』
と、毎回毎回何かにつけて感謝の言葉を記してくれるのである。

私は、母の日記の文面によって初めて母の想いを知ったといっても過言ではない。
母の愛情を理解するまで、長い長い道のりだった。

明後日、4月1日。
半年足らずお世話になったこの精神科を退院し、予(かね)てから兄夫婦が申し込んでいた老人介護施設へ入所することとなった。






4

2011/2/26  12:43

老母の行く末 21.寒中見舞い  両親のこと

いよいよ寒に入り、文面やら字形やらになかなか自信を持てないでいる母に、思い切って声を掛けた。
「お母さん、そろそろ本番行って見ようか〜!!」

戸惑う様子の母の目の前に、
「はい、ハガキ持ってきたよ。これで準備万端〜!!」
少々おどけながらとびっきり明るく誘う。

「いいからいいから、気軽に書いてみようよ。どうせ私宛になんだからさ。失敗したって気にしない気にしない。今お母さんが書ける精一杯の状態で書いてくれればいいんだから。それが私にとってすごく嬉しいんだから、ネ!」

渋る母にあれこれ矢継ぎ早にポジティブな言葉を畳み掛け、ようやく寒中見舞い制作へとこぎつけた。

おおよその文面はノートに考えてあったようで、いざ決心をしてハガキに向かうと、相変わらず手は小刻みに震えているものの、ペンの進みは意外と速かった。


『寒中御見舞い申し上げます

早々に年賀状を頂きほんとうに嬉しく思いました
毎日毎日降る雪にうんざりしますね

これが砂糖でしたらどんなだろう?
とロマンチックに思います

それも又ほんとうだったら困りますね

毎日御見舞いに来てくださってありがとう
ございます 感謝しています

風邪がはやっているので体を大切にして下さい』


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不自由な状態の中で、母が精一杯書いてくれた文字は、過去に貰ったものとはまるで異質の乱れた字形ではあったが、その一文字一文字に母の心が感じられた。

失敗した失敗したとすまなそうな表情で沈む母に、
「お母さん、これとっても素晴らしいよ!すごく嬉しいよ!今日帰りに早速ポストに入れてくるからネ」
と飛び上がらんばかりの嬉々とした声を掛けると、ようやく母の曇りが消えた。

そして後日、母からの寒中見舞いのメッセージは、降り続く雪に濡れることもなく、1月9日の消印を押された立派な姿で自宅の玄関にヒラリと舞い込んだのだった。






4

2011/1/30  18:09

老母の行く末 20.嬉しい兆し  両親のこと

母が精神科に入院してから3ヶ月半が過ぎ去った。

相変わらず一進一退を繰り返していた母であったが、あることを機に、ほんの僅かづつではあるが快方へ向っている、という実感を得ることが出来るようになった。

あること・・とは・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・

「お母さん、今年も私に年賀状書いてくれないかなぁ」
ペンを手に持つことすら危うい母に、私は出来る限りの明るさを振舞ってねだった。

母の返答は、予想通りの激しい拒絶であった。
小刻みに震える手、椅子に腰掛けるどころかベッドに横になっていることすら辛い体・・
当然のことであろう。

しかし、私は決して諦めなかった。
翌日も、またその翌日も、母にねだった。

毎年必ず元旦に届いていた母からの毛筆の年賀状は、誰もが絶賛する達筆であり、それは私の憧れ、そして自慢でもあった。
しかし、今となっては達筆であろうが無かろうが問題ではない。
とにかく、母に、現状の中で精一杯の力を振り絞った母の文字を書いて欲しかったのである。

「じゃあ、練習だけでいいからしてみようよ」
母のために用意してあったノートとペンを取り出し、食堂のテーブルへと誘った。

歩行器につかまり、辛そうに一歩一歩歩く母の背を支えながら、明るく明るく振舞う自分。
どうにかこうにか母のお尻を食堂の椅子に収め、真新しいノートを広げた。

『いつか母が、このノートを文字や絵で埋めてくれる時が来るかもしれない・・いや、きっと来る!』
母が入院したとき、そんな想いを込めて用意したノートである。

ペンを持った母の手が震える。
震えるペン先が、ノートの紙面を擦った。

あ・・けま・・して・・

思うように綴れぬ文字・・

しかしそれは、今現在の母が書ける精一杯の文字!

「お母さん、素晴らしいよ!嬉しいよ!」

その日から、私は毎日母を食堂のテーブルへと誘い続けた。
5分、10分、15分・・少しづつではあったが、母が『文字を書く』ということに集中する時間が増えていった。そしてそれに伴い文字数も。

とはいえ、本番の『年賀状を書く』という域には達成することなく新しい年を迎えることとなってしまった。
しかし、私は決して諦めなかった。年賀状が間に合わないのなら、寒中見舞いになったっていいじゃないか!

『母が書く、そしてそれを喜ぶ私がいる』
誰かに喜んでもらえる嬉しさを、母に実感して貰うことが一番重要なのだ。

お正月気分も過ぎ、母の文頭が寒中お見舞い申し上げますに変わった。

「どう書こうや・・」
母が文面に頭を悩ます。

ああ、なんて素晴らしいことなのだろう!
ここ数ヶ月、母の口から出る言葉といえば、『痛い、辛い、だるい』だけであったのに!
ペンを握り、ノートに向かって頭をひねる母の姿は夢のようであった。





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2010/12/30  15:50

老母の行く末 19.覚悟  両親のこと

鬱病は、『心の風邪』などと称される。
このストレス時代、鬱は風邪同様さほど珍しい病気ではない、ということなのだろう。

だが、実際に鬱病の母を見ていると、『欝は心の風邪』などと安閑とはしていられないと強く感じさせられる。

母が精神科に入院してから既に二ヶ月半が経過した。
その間、平日も休日もなくほぼ完璧に母の元へと通った。

少しは快方に向かったかと思えばまた悪化へ。
母への対応は、一切の気を抜くことを許されなかった。

まるで輝きを失ったくすんだその瞳は、末期癌で亡くなった父の数日前のそれを思い起こさせるほど酷似していた。

『欝は心の風邪』なんかじゃない。
『欝は心の癌』なのだ。末期鬱は患者の命をも奪うのである。

が、実際の末期癌と違うのは、回復への道が全く閉ざされているわけではない、という点である。
その希望があるからこそ、母との一日一日に気を抜かずにおれるのだ。

きっと元の母に戻ってくれる!
その思いを強く抱きつつ、今日も明日もあさっても・・おそらく母がこの世に存在する限り永遠に・・母の元へと通い続けることになるのだろう。

通える母がいてくれることに感謝して・・

子としての一種の『覚悟』でもある。



    ※  ※  ※  ※  ※

今年もいよいよ明日を残すのみとなりました。

2010年は、一ヶ月ほぼ一記事のペースとなってしまいましたが、それにもかかわらず毎回当ブログをチェックして頂き、更に貴重なコメントまで頂き、感謝感謝でした。

また、拍手コメント欄ではいつも温かいお言葉を頂き、その度に励まされました。この欄は返信機能が無いため、結果的に無反応となってしまっていることを大変申し訳なくなく思っております。というわけでこの場を借りて・・「ありがとうございました!!」

来年も、ボチボチのペースで継続していくつもりです。
なんとなく思い出してチェックして頂ければ嬉しいです。

それでは、良いお年をお迎え下さい。
来年が素晴らしい一年となりますように!





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2010/11/3  23:59

老母の行く末 18.バッシング  両親のこと

世の中、アンチエイジング、アンチエイジングとかしましいが、そんなことを考えていられる余裕があるうちは十分幸せであると感謝すべきである。

人間はいつかきっと、老いに追いかけられ、追いつかれ、そしてそいつにすっぽり包み込まれてしまうのである。

    
     ※      ※       ※      ※

母が入院した精神科に関する病院は、今回が二軒目である。
以前お世話になったところは総合病院の精神科であった。
が、今回は個人病院だ。

個人病院といっても四階建てで、一階は外来、二〜四階が入院病棟である。
全体の入院患者は100名余り。母のいる四階病棟は女性ばかり30名程が入院している。
年齢は様々。おそらく20代前半から80代後半まで、相当な幅があるように見受けられる。

母のいる病室は、四人部屋。
40代・60代・70代、そして母80代。

病棟に入るには、まず受付で患者名・自分の住所氏名・患者との続柄を記入し、そして病棟入り口の鍵を開けてもらう。
施錠は厳重である。

病棟に入り、廊下を進むと中央に食堂がある。
直径三メートル程の円卓が三つ置かれ、朝・昼・晩、患者たちはそこに集まり食事を摂る。
食事時でなくとも、そこには常時数名の患者たちが何をするでもなく椅子や車椅子に掛けている。
彼女たちの間に会話はほとんど無い。

母の病室に入るには、必ずそこを通らなければならない。
その都度、私は、「こんにちは」あるいは「こんばんは」ととびっきりの笑顔で声を掛けるが、ビクッとする人、ただじっと見つめる人、無反応な人・・。
稀に笑顔で返事を返してくれる人がいたりすると、恐ろしくホッとする。

老人介護施設とは明らかに雰囲気が違う。

初めの一週間は、病棟のあまりの異次元さに戸惑った。
それは、以前入院していた精神科病棟も同じであったが、今回はまた一からの空気である。

二週間ほど通いつめると、少しづつ様子が分かってきて、笑顔で挨拶を交わして下さる患者さんも二、三人増えた。

とはいえ、患者さんたちと意思の疎通を図ろうなどと大それた事を考えようものなら、たちまちのうちに打ちのめされる。
昨日は笑顔で挨拶をくれた人も、今日は全く無反応でそっぽを向かれたり・・・
それはそうだ、皆、精神を病んでいるからこそここにいるのだから。

  ・・・・・・・・・・・・・・

母は手が震えてうまく食事が摂れない。
スプーンのおかゆがこぼれてダラダラ落ちる。
時間のあるときは、私が食事の介助をする。
ゆっくりゆっくり、母に声を掛けながら、なるべく楽しい雰囲気で。
そうすると、いつもは2〜3口で食事を拒否する母が、なんとかごまかしごまかし半分は食べてくれるのだ。
そうすると私も嬉しい。

そして今日は休日であったので、午前中から母の元へ行き、昼食は食堂で母の隣に座り介助をしていた。
食べ初めて5分も経った頃、円卓の向かい側に座っている20代と思われる女性が、つかつかと私の隣に立ち、いきなりこう言った。

「おまえ邪魔!目障り!帰れ!帰れ!」

あまりの突然なことに、驚いて彼女を見上げると、まるで尖ったナイフの先を突きつけたような鋭く冷たい目で私を睨み付けていたのだ。

「帰れ!」

数メートル離れた隣の円卓で患者の食事の介助をしている看護師さんには聞こえないような低い声ではあったが、彼女の私に対する嫌悪感を察するには余りある。

もともと私には不安があった。
この病棟には、面会人がほぼ皆無。
そんなところへいきなり毎日姿を見せるようになった私の存在を、患者さんたちはどのように受け止めているのだろうか、と。
施錠された狭い空間に、外の世界から訪れる私は、確かに目障りかもしれない。

母の症状を救えるのは、愛情のこもった日々の面会だということは、看護師さんも私も同感している。

が、それに不快感を抱いている患者さんがいるということを、今日はっきりと認識したのである。

「・・お母さん・・私・・ここにいちゃダメみたい・・ゴメンね・・もう帰る・・ね・・」

そう言うと、涙があふれそうになり、慌てて母に背を向けた。

看護師さんに帰る旨を伝え、病棟の鍵を開けてもらっていると、とうとう堪らず泣いてしまった。

自分の存在って何だろう・・

私の様子を見て驚いた看護師さんがわけを聞いて下さったが、あまりうまく言えなかった。

「ここは精神科だから、いろいろな人がいるの。毎日幻聴に苦しんでいる人や自分の感情がうまくコントロールできない人や・・。普通の人にとってはショックなことだったかもしれないわね・・でも、お母さんにとってはあなたの助けが必要なのだから、それは分かってあげてね」

もちろん、明日も行くけれど・・もちろん笑顔で母に会いに行くけれど・・






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2010/10/30  17:15

老母の行く末 17.スパイラル  両親のこと

医師から渡された診断書に記されていた病名は、
『重症うつ病』
というものであった。

症状は、不眠・抑うつ・希死・厭世・不安・摂食不良など。
治療目標は、自殺防止・病状改善など、とある。

体の痛みや極度のだるさにより、一人でベッドから起き上がるなど当然容易ではなく、声を出す力さえも無く、母の訴えはほとんど聞き取れない。

食欲は皆無。
数日間点滴が続いた。

その間、一日も欠かさず母を見舞った。
いや、欠かさずにはいられなかった。

それは、母が私の助けを強く求めていたからである。
おそらく母にはもう帰る場所など無いだろう。
たとえ母の具合が多少は良くなったとしても、兄夫婦は母を受け入れる気など全く無いのではないかと思う。

もし仮に退院できたとしても、母はどこか施設に入ることになるのだろう。
勿論それは、病状が良くなったら、の話だが。

入院から二週間が過ぎた。
最悪のうつ症状と思われる母ではあるが、実は私には秘めた自信がある。

それは、
『私が毎日欠かさず心を込めて母に接し続ければ、きっと症状は快方に向かうに違いない!』
というものである。

どんなことがあろうと決して母を見捨てず、明るく笑顔で会いに行こう!
今、母を救えるのは、私ただ一人である。

そんなふうに思い込むことが、自分自身にとってある意味危険なプレッシャーを与えるのではないか、といった危惧は感じるが、本心である。

娘依存の母親とそれに真面目に応えようと努力する娘のスパイラルの図、かもしれないが。






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2010/10/16  18:27

老母の行く末 16.限界  両親のこと

秋とは名ばかりの9月の終わり、敬老の日も過ぎたというのに夏のような暑い日差しのお昼過ぎ、私はひとつの期待をこめて、実家の母の元を訪ねた。

・・期待・・と同じくらい、いやそれ以上の不安も感じていたのだが・・

どうぞと兄に勧められるまま母の部屋を覗くと、長袖のカーディガンを着込んだ母がベッドでぼうっとしていた。

締め切った窓に、澱んだ空気・・

「お母さん、暑くない?エアコン入れるよ?」
私は堪らず、母の返事を聞く前にスイッチを入れた。

「お母さん大丈夫?これじゃ熱中症になっちゃうよ。歳を取ると暑さが分かんなくなっちゃうっていうから十分気を付けないと」

母は、わかったようなわからなかったような曖昧な返事をした後、また毎度のセリフを始める。

「こんな体で生きとってもなんもいいことない・・」

母の言う 『こんな体』 とは、一体どんな体のことを言うのだろうか。
老化による不便は仕方が無い。
しかし、癌やそのほかの病気などで余命宣告を受けているわけではないじゃないか。
と、私もまた毎度心の中で母のセリフに反発する。

「お母さん、そんなことより今日はプレゼント持ってきたよ」
「何ぃね・・」

生気の無い母の様子に不安がよぎる。

ええい、ままよ!

自分の足元に横たえた長い段ボール箱から、中身を丁寧にそろりそろりと取り出した。

「ほら、これ!」
「何ぃね、これ・・これ・・大正琴・・?」

「うん、ほら、お母さん前に施設におったとき、大正琴の先生が来られてちょっと触らせて貰ったら楽しかったって言うとったやろ?だからさ、リハビリにもなるしいいかなぁと思って。探してみたら手ごろな値段のがあってね」
「あんた、こんなもん買うてこんでいい!せっかくやけど反対に迷惑やわ!こんな弾かれもせんもん買うてきて!もう箱にしもうて持って帰ってや!」

不安が的中したとはいえ、その激しい反応は予想以上だった。

「でもお母さん、お母さんは昔、三味線とか習ってたじゃない。いつも練習して発表会にも出てたじゃない。だからさ、これも少しづつ気長に練習すればさ、少しづつ少しづつ弾けるようになるよ。誰も最初っから上手い人なんていないからさ、いきなり焦らなくていいんだからさ、楽しめばいいんだからさ」

どれだけ説得しても、母は頑として受け入れてはくれなかった。

そうは言ったものの、実は私自身、実物の大正琴に触れるのはこれが生まれて初めてだった。
私が母に教えることが出来るのならば、もう少し事は順調に運んだのであろうが・・

とりあえず折角なので、説明書にざっと目を通し、何とかチロチロと音だけは出してみた。
その後小一時間教本と格闘し、なんとか『さくらさくら』の数小節をごまかしごまかし弾いてみた。

母は指が震えてなかなか思ったようなところが押さえられない。
が、おそらく、誰かが傍に付いて熱心に懇切丁寧に教えれば、母のリハビリに効果があるのは間違いなかった。たとえそれが週に一度であったとしても。

しかし、その『誰か』に成り得る者はどこにも存在しなかった。

私はその日っきり、実家を訪ねることは無く、大正琴はまたダンボールの中に何事も無かったかのようにきれいに納められ、押入れかどこかの片隅に追いやられその存在すら既に忘れ去られているに違いないのだった。

そして昨日・・
母はまた入院した。
精神科の病院である。

「これ以上お母さんを自宅で看ることなんか出来んよ!もう限界!」

兄と兄嫁の悲痛な叫び声が、今も耳から離れない・・








0

2010/9/19  17:45

憂鬱は秋風に乗ってやってくる  仕事ネタ

狂気に満ちた猛暑の日々がようやく一段落したかと思われる心地良き初秋の休日・・

ああ、なんと爽やかな・・

そんな貴重な連休を費やし、とある書類作成に励んでいる。

いや、励みたくなどない。
しかし、励まざるを得ない。

ああ、なんという矛盾・・

いや、人生というものは、こうした矛盾に満ち溢れておるのである。

なんだか疲れ切って頭の中が回らない。
気力も失せる。

なんでこんなことせにゃならんのや・・

ぼやきたくもなる。

ぐでぐで文句を垂れていると、窓の隙間からスルリと入り込んだ秋風が優しくささやいてくれた。

「そんなことではあきませんでぇー」

なんで関西弁やねん、秋風。

そんな質問に答えてくれるはずもなく、秋風は向こうの窓へと抜けていった。


ああ・・・


  ※   ※   ※   ※

数年前にも舞い込んだ税務署からの依頼、

『売上・仕入・費用・及びリベート等に関する資料提出』
である。

今回弊社に課せられた取引内容は、
仕入(材料費含む)・外注費・接待交際費・建築工事費・運送費・修繕費・機械等の購入費
であった。(数年前はもっと少ない項目だったような気が・・)

今年度半年分のそれぞれの取引に関与する氏名・社名(住所・氏名・電話番号)・取引決済日・決済方法・金額・決済金融機関名口座番号・品名などを全て記載して提出せねばならないのである。

金額に関しては下限が示されてはいるものの、こんな面倒な作成、頭に思い描くだけで憂鬱である。


ああ・・・爽やかなはずの秋の連休がぁぁぁぁぁぁ・・


  「そんなことでは秋ませんdayー」







4

2010/8/31  15:35

小人物からの脱却  好きに語る

猛暑の影響(いや、加齢によるホルモンバランスの影響か??)からか、ちょっとしたことでついカッとなってしまうそうな今日この頃、或る日出逢ったこの言葉によって、現在の我は冷静さを取り戻しているといっても過言ではなかろう。


喜怒哀楽の変化に激しいのは小人物の常である。
大人物は寛大なり。
(松雲庵主)


嗚呼、松雲庵主様、素敵なお言葉ありがとうございます。
迷える小人物のわたくしを、いつも支えて下さっています。
(参照:某新聞運勢欄)

そうです、喜怒哀楽の激しい人物は、時に『豪快』などと良い意味で捉えられがちでありますが、単に自分の感情をコントロール出来ない小人物に過ぎないのであります。

せめて、ちょっとしたことにいちいち腹を立てるのはやめよう。
それだけでも、少しは大人物に近付けるような気がするではないか。

心穏やかに・・・

穏やかに・・・

おだ・・



















暑っつい!!!








(やっぱ小人物のままか・・・)






2

2010/7/19  18:26

父の祥月命日  両親のこと

父が亡くなったのは、2007年7月19日であった。
あの日からもうこんなに年月が流れたのである。

先週は、実家のお盆でもあったので、夫の両親に頼んで昼間二時間ほど会社を抜けさせて頂き、実家の母を助手席に乗せて父のお墓へお参りに行ってきた。

正直な話、全く実感が湧かないのである。
父は確かに亡くなったのだが、こうして年月が経てば経つほど、「だからなんなの?」と思ってしまう自分に戸惑う。

これは、なかなか言葉では簡単に言い表せない感情なのであるが・・

時として、自分は非常に冷たい娘なのかもしれないなぁと自己嫌悪に陥ったりもするのであるが、もしかしたら『宗教』への疎さが大きな要因になっているのかもしれない。

要するに、数々の仏事の重要性が、いまひとつ・・いや、全くといっていいくらいに理解出来ていないのである。

お年寄りは、何か事あるごとに、
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・」
と無意識の中唱えているようだが、私には到底出来そうにない。

いや、もちろん、今後ある一定の年齢に達したなら、きっと皆その境地に至るのだよと言えなくもないのだが・・。

命日に、故人のお墓や仏壇に手を合わせる・・
先祖を敬うとは、そういうことを言うのかな。

日々、父のことを忘れることはないし、いつの間にか心の中で会話していることもあるのだが、それらは全く評価されないのかな。

いや、まずもって、『評価』なる単語を使うこと自体間違っているぞ、自分!

そんなことを思いながら、心の中でだけ手を合わせて今日を終えようとしている親不孝な娘である・・






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