もう26年前になるのかと、あの日の大地震の日を想起している。周囲に殆んどいなくなった同年輩の人たちの顔、顔が浮んで来る。春隣(はるどなり)と呼ばれる俳句の季語がピッタリする時候。今年はあの日よりも少し暖かではあるが、震災に震えていた人たちのことを思う。そしてリュックサックに水と食料を入れて、知人を尋ねて歩いた時のことを思い出した。清荒神の参道のひび割れ、いや地割れ、摂津本山駅前のビルが無残にも1〜3階が無くなっていた光景、何処も彼処も信じられぬ世界が続いていたことは忘れられぬ。多くの人たちが癒えぬ悲しみを抱えて生きている。そして今、新型コロナウイルスに暗く憂鬱に耐えて春を待つ思いは切実である。
確かあの朝の揺れのあと、母の寝室に駆け上がったら茫然と「よう揺れたナ」と蒲団の上に正座していた姿を忘れることが出来ない。歩くことが大義になっていたのであろう。現在、わが脚力もコロナによる外出の規制で可なりの衰えを感じているのだが、輪廻転生の思いもまた切なるかなであろうか。そんなことも考えている1・17の日である。
こだはりを何時まで持つかと指摘さる知らぬ間に野良猫棲み付いていて

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