昭和13年(1938)創設の加藤隼戦闘隊という世界に誇る戦闘隊が日本にあった。当時は皇軍と呼ばれた加藤戦闘隊は日中戦争開戦後、大東亜戦争の初期に大活躍していた。
エンジンの音 轟々と 隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と 胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機 『加藤隼戦闘隊』
赫々たる武勲に輝いたころの軍歌であるが、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)には、戦局の不利を挽回するため、「一人一艦」必死必中の思いをこめた神風特攻隊に編成されて行った。その初出撃が昭和19年10月25日、レイテ沖海戦に関行男大尉以下の五機(将校1、下士官2、兵2)が、サマール島付近にある米空母群に突入して、全員が戦死した。
送るも往(ゆ)くも 今生(こんじょう)の
別れと知れど ほほえみて 爆音高く 基地をける
ああ神鷹の 肉弾行 『神風特別攻撃隊』
勇壮と悲壮の思いが滲んでいる大日本帝国の飛行機隊の軍歌を比べてみても戦局の状況を汲み取ることが出来る。
関行男大尉の新婚の妻への遺書を読むのは辛い。
「満里子殿 何もしてやる事も出来ず散りゆく事は、お前に対して誠に済(す)まぬと思っている。何も言わずとも、武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思う。御両親に孝養を第一と心がけ生活して行く様(よう)、色々思い出をたどりながら出発前に記す。」
昭和20年(1945)8月16日、終戦の翌日、特攻隊生みの親と言われる大西瀧次郎海軍中将(1912−1945)は自刃した。自決に際してはあえて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受けることすら拒み、特攻隊員にわびるために夜半から未明にかけて半日以上苦しんで死んだという。
すがすがし暴風のあと月清し これでよし百万年の仮寝かな
が、辞世の句とか。昨晩、最近、古代のことを書かないのかと有難いことにわがブログの拙文に付き合ってくれている知人から電話があった。大伴家持の長歌の一節を想い出し、戦後日本の繁栄の魁(さきがけ)として逝った、武人たちを偲びたい。
海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ
(海に行けば水に漬かった屍となり、山に行けば、草の生す屍となって、大君の足もとにこそ死のう。後ろを振り返ることはしない。)
武をよしとした日本人の美学がかってあった。忘れるべきではないが、絶対であるべしとすることは、危険なことであると考えなければならない。
―今日のわが愛誦短歌
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ふうわりと空にながれて行くやうな
心になって死ぬのかとおもふ 前川佐美雄
―今日のわが駄句
・道の辺の菊に似合はぬ少女たち

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