流行作家織田作之助が生まれて来年で100年になる。大正2年(1913)10月26日が誕生日だから昨日である。
「登り詰めたところは露地である。露地を突き抜けて、南へ折れると四天王寺、北へ折れると生国魂神社、神社と仏閣を結ぶこの往来にはさすがに伝統の匂いが黴のように漂うて、仏師の店の「作家」とのみ書いた浮彫の看板も依怙地なまでにここでは似合い、不思議に移り変りの少ない町であることが、十年振りの私の眼にもうなずけた。北へ折れてガタロ横丁の方へ行く片影の途上、寺も家も木も昔のままにそこにあり、町の容子がすこしも昔と変っていないのを私は喜んだが、しかし家の軒が一斉に低くなっているように思われて、ふと架空の町を歩いているような気もした。しかしこれは、私の背丈がもう昔のままでなくなっているせいであろう。・・・」と、
『木の都』で自分の故地を振り返っている。
出身校「生玉小学校」校門
10時、大阪市営地下鉄谷町線「夕陽ヶ丘」駅2号口に集合。口縄坂を下り松屋町筋に。
口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。
北へ学園坂を上り再び谷町筋へ。北に一つ目を西に、織田作之助の先祖、織田信長が石山本願寺を攻める時に築いた天王寺城であった跡に信長が寄進した「月江寺」、
「死んでから 噺す織田作 菊五郎」と詠んだ川柳作家、岸本水府の墓所がある「青蓮寺」を北に曲がり、源聖寺坂を挟んで近松門左衛門の
『心中宵庚申』のお千代・半兵衛の墓がある「銀山寺」、
お千代・半兵衛の墓
「通天閣」の命名者藤澤南岳、その孫の作家藤澤桓夫の墓がある「齢延寺」を北に歩くと左手が「生国魂神社」其処は近松の
『生玉心中』の遊女おさがと茶碗屋嘉平次の情死の世界。そして、織田作之助が
「大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼児の記憶は不思議に木と結びついている。それは、生国魂神社の境内の、巳(み)さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟(くす)の老木であったり、・・・」と
『木の都』で書いた森を見て、
『木の都』巳さんの森
源聖寺坂の道を東に谷町筋を渡った辺りが織田作の生誕地で生魚店「魚鶴」があったところであるという。江戸時代松尾芭蕉、与謝蕪村、滝沢馬琴などが訪れた、「浮瀬(うかむせ)」で板前をしていてここに父鶴吉と母たかゑが結婚して「魚鶴」を開店して織田作之助が生まれた。そこを東に織田作之助、作曲家服部良一の出身校「生魂小学校」がある向いに
『夫婦善哉』の蝶子の実家があった「ガタロ横丁」がある。以上が織田作之助所縁の文学コースである。この界隈はわが家の墓所がある「了安寺」にも近く、凡そのことは知っていたつもりだが、ガイドで意外な発見も多々あって楽しい散策の一刻を過ごすことが出来た。
現在はガレージになっている「ガタロ横丁」跡
―今日のわが愛誦短歌
・
生きざまのまさしきものらかすかなる
蝶にして濃き蝶紋ありき 安永蕗子
―今日のわが駄句
・今は昔織田作の道は秋日和
大阪はすくなくとも私にとっては木のない都ではなかったのである。 『木の都』より。
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