キリシタン大名高山右近の生誕地である豊能町の高山から残雪の山を越えて、大阪府茨木市大字千提寺262の地に建つ「キリシタン遺物史料館」に着いた。三方が山に囲まれていて、南方にすこし開けた閑寂な寒村が其処にあった。現在では隠れキリスタンの里であったことは大っぴらになっているのだが、豊臣、徳川の為政者によって信教を禁じられた人たちには、明治6年(1863)の
『太政官通達』で、わが国のキリスト教の禁教が解かれるまでは、隠忍自重の歴史を強いられていた。
茨木市立キリシタン遺物史料館
「カクレキリシタン」とは、キリシタン時代にキリスト教に改宗した者の子孫であり、1863年に禁教令が解かれて信仰の自由が認められた後もカトリックとは一線を画し、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を組織下にあって維持し続けている人々を指す。オラショや儀礼などに多分にキリシタン的要素を留めているが、長年月にわたる指導者不在のもと、日本の民俗信仰と深く結びつき、重層信仰、祖先崇拝、現世利益、儀礼主義的傾向を強く示すものである。
―と、宮崎賢太郎
『カクレキリシタン』に記されている。
江戸幕府は、キリスト教の信仰を厳しく禁止し取り締まったのだが、此処からキリシタンの遺物がたくさん発見されたのは、どういうわけがあるのかを考えたとき、かってこの地の領主がキリシタン大名の高山右近の影響があったことが頷けそうである。
「キリシタン遺物史料館」でビデオを観ていると、大正8年(1919)郷土史家の藤波大超氏の第六感で「千提寺・下音羽」地区に「隠れキリシタン」が住んでいるのではないかと疑問に思ったのがきっかけであるという。忍耐強く、しつこく、一軒一軒歩いてかたい口を開かせ、遂に「あけずの櫃(ひつ)」と言われ、その家の長男にしか存在を明かさなかった天井裏の梁にくくりつけられた遺物を拝見することに漕ぎつけた。そこには教科書にも載っている
『聖フランシスコ・ザビエル画像』等が隠されていた。この画像は狩野派の絵師によって宣教師が持ってきたものを模写して描かれたものとされるが、現在は神戸市立博物館所蔵で重要文化財に指定されている。
余談になるが、植物学者である牧野富太郎の研究を経済面で支援したことでも知られる。神戸 の南蛮美術品のコレクター池長孟(1891−1955)が「あけずの櫃」が秘匿されていた東藤次郎宅に日参してついに入手、戦後、神戸市に寄贈、現在は神戸市立博物館蔵となっている。東家では高く値をつければ諦めると思い、3万円(現在の6000万以上)と言ったところ、池長は別荘を売って絵の代金を準備したという。東家はその金に手をつけず今日まで持ち続けているという話を、
『手放した側の悲しみ―コレクターの業』として、池長孟の三男でカトリック司教となった池長潤氏が書いている。
カクレキリシタンが未だカトリックに復帰しない理由については、さまざまな要因が考えられているが、主なものとしては、
@先祖からの伝統形態を守り続けることが正しいとする考え方。
A仏教、神道を隠れ蓑として来たが、長い年月のうちに精神と生活に定着し、神仏を祀るのに矛盾を感じなくなり、カトリックへ復活することによって神仏や先祖の位牌を捨てることへの抵抗感。
B先祖から受け継いだ習慣を放棄すると、罰を受けるのではないかという恐れ。
が、あると今も信じている節もあると言われているが、史料館で働くこの地区の人は、クリスチャンではなく仏教徒ですと、強い響きがこもった声を聞くにつけ、先祖のたどった苦難の歴史を思った次第である。
―今日のわが愛誦短歌
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すずろかにクラリネツトの鳴りやまぬ
日の夕ぐれとなりにけるかな 北原白秋
―今日のわが駄句
・まさびしくキリシタンの里冬ひかり
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