余りの寒さに家の内で閉じ籠っていたら、然(さ)して遠からぬ所にある三本の桃の木が満開であると家人が教えてくれた。ああ、その桃の木のことなら承知していると出掛けてみることにした。
この付近(大阪市南区日本橋東1丁目)で明治37年(1904)小説家の武田麟太郎が生れた。俗に「長町」と言われた一画である。大阪ではその長町裏は貧民窟として隠れもしなかったところであった。江戸幕府の公儀橋であった日本橋(にっぽんばし)を南に渡ると、今とは違い大阪も場末であったのだ。堺へ行く街道が一筋通っている細長い町になっていたのが「長町」の名の由来であったという。畢竟、木賃宿が軒を連ねて、その裏側には長屋がぎっしり建て込んだ、
「かんてき長屋」「ほうき裏」「豚屋裏」「坊主裏」「吉野屋裏」「灰屋裏」「桃の木裏」「八十軒長屋」「くもの巣」などと呼称されたところに人足、くず拾い、行商人、乞食、お尋ね者が住みつき喧嘩、博打が絶えず、他所者が一歩この地に入ると無事には帰れないと言われた無法地帯であった。そこで彼が生れた前年の明治36年(1903)、第5回内国勧業博覧会が天王寺付近を会場として行われた。その折、明治天皇の行幸、新世界、天王寺公園への会場へ行く見物人の通行で道路の拡張がなされた。環境を整備する目的で行政当局は貧民を強制的に立ち退かせ、木賃宿の営業を禁じた。追われた人たちは博覧会場の南側に移動させられた。今の愛隣地区(釜ヶ崎)である。麟太郎が生れたときは、まだその移動の余燼がくすぶっていたのだろう。後年、彼はその出身地の長町のことを触れず、釜ケ崎に言及したのも、薄給であった父母の新婚の地を顧みるにしのびなかったのだろう。
桃の花咲けども咲けども寒さかな
支考の桃の句を思い出しながら桃の木の場所を目指す。数年前に建てられた大阪市営住宅の高層の前庭にその桃の木があった。何故、桃の木をこの場所にだけ3本植えた意図があったのかは分からないのだが、
「大阪市にて最も繁華の地なりと称せらるる心斎橋を過ぎ道頓堀に出で候はゞ難波新地を傍らにして今宮村に通ずる大路有是ぞ大阪市民になが町と呼ばれる常にイ忌み嫌はるる大阪貧民の住民地日本橋通に候。大阪に初めて来る者にして名護町の事を質せば短純なる市民は孰(いずれ)も月世界の事をきかれたるが如く奇怪なる面色をなし、じろじろ間者の顔を眺め後ち声をひそめて六、七年前の名護町の状態を語り候が通例に候・・・」と、当時、発刊された
『日本の下層階級』に書かれた、その地(現在はそうではないことを申しそえておく、念の為)に咲いた3本の桃の木の満開を眺めながらうたた感慨深いものがあった。
タケリン。大正末から敗戦に至る激動の時代を一身に受け疾駆した昭和前期の代表する作家。41年の薄命の生涯を振り返りながら、日本橋を語りたくなかったそのはにかみを愛する。
戸の開いてあれども留守なり桃の花 千代女
―今日のわが愛誦俳句
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息吸ひて叩きて朧の夜なりし 能村登四郎
―今日のわが駄作詠草
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さくら花咲けとや桃は誘うかな
前の世の人みな知らずなり
緋桃卑し開き尽くして落花せず 久保より江
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