彼岸に入ってから好日が続いている。思い立ったが吉日なりと、日本で一番古い仏の尊顔を拝したくなったので、飛鳥寺に出掛ける。
寺の縁起には、推古天皇13年(605)、天皇が聖徳太子、蘇我馬子らと発願し、同17年(609)鞍作鳥(生没年不詳くらつくりのとり=止利仏師)によって造られた仏像であることが
『日本書紀』、『元興寺縁起』に書かれている。鞍作鳥の名は、法隆寺金堂の本尊である
『釈迦三尊像』(623)作で、その光背銘に「司馬鞍首止利(しばくらつくりのおびととり)」と表記されていることから考えると、この飛鳥大仏は、法隆寺の国宝本尊より14年も早く存在していたことになる。しかし、平安・鎌倉時代の大火で罹災してその損傷が激しく、後世の補修を受けているとの解説があった。現存する像のどの部分が鞍作鳥作の原型であるかは判別し難いが、概形を観ていると、飛鳥彫刻らしい特色を細部にわたって伝えていることが分かる。驚いたことには、各地の寺社仏閣の神像仏像は、撮影を憚らずということで、ここの住職の大きな御仏の心には感銘を覚えた。数枚、自分で考えた遠慮のない角度から尊顔を写させていただいた。この仏像より後年に造られた、日本全国にある秘仏の写真と、比べられる愉しみを許容した飛鳥寺の慈悲に念仏喜捨の合掌を惜しまなかった。
飛鳥寺を出たら、今を盛りに彼岸花が黄金に穂を垂れた田中の畔道に咲いていた。この辺りは、当時の日本の政治が執り行われた都城跡地である。その有力者の神祇崇拝を重んじてきた物部氏と、伝来の仏教布教に聖徳太子も加わり、蘇我、物部両氏の戦いで物部氏が滅ぶ。その折、仏教側の戦勝を祈願して建立されたのが飛鳥大仏であったのだ。
付近にある蘇我馬子の墓と伝えられる「石舞台古墳」を見ると物部氏に勝った蘇我氏の権力が解かるし、飛鳥寺から80メートルの田中に、大化改新で滅んだ蘇我入鹿の「首塚」が彼岸花の群落に沈むようにあった。こんな小さな地域で起きた治乱興亡の歴史に一層の憐れさを感じた。
曼珠沙華咲いて ここが私の寝るところ
種田山頭火の呟きが秋の匂いを伝えてくれた。
石舞台古墳。蘇我馬子桃源墓
―今日のわが愛誦俳句
・
実り田と思ふ俯瞰のただ黄色 山口波津女
―今日のわが駄作詠草
・
秋の蝶いつまで生きているのやら
首塚の供花吸いて消え去る
蘇我入鹿首塚
4499

8