骨董を商う知人から
『暮らしと美術と高島屋』展のチケットを頂戴したので、難波の「大阪高島屋7Fグランドホール」と日本橋の「高島屋史料館」の
『高島屋と美術家たち』展に妻と出掛けた。
岡本太郎も与謝野晶子も、仕事した。高島屋物語、いよいよ大阪で!と、サブタイトルが付けられている。岡本太郎は、今でも百貨店建築としては初の国の重要文化財に指定されている東京日本橋の東京店の地下通路にあるモザイクタイル壁画
『創生』を残しているし、百選会と称して毎年春秋二回、数種の流行色と文様のスタイルを選定して製作させた綺羅錦繍の衣、帯が展示されていて、このきものの歌を詠んだ与謝野晶子の美意識が売り上げに貢献したことは間違いないが、こんな美衣を羽織ったのは如何なる貴顕美女なりやを想像するだけでも楽しくなってくる。美人を描けば北野恒冨だが、その昭和4年(1929)に描かれた
『婦人図』は圧巻で展覧会場を圧倒していた。
香くはしき近代の詩の面影を装ひせんと明眸のため 晶子
北野恒冨『婦人図』
絵に添え書きされた晶子直筆の短歌詠草は珍しいものだ。
現在の難波に高島屋が移転するまで大阪人は高島屋が長堀橋にあったことを覚えていたものだ。そこで開催された「北野恒冨新作美人画」展で発表されたものである。堺筋に「三越」、「高島屋」、「松坂屋」。心斎橋筋には「大丸」、「そごう」と市内に百貨店が集中していた大大阪の時代で、「阪急」、「阪神」、「近鉄」はまだ揺籃のころであったのだ。しかし、御堂筋が拡福され現在のようになったのを潮に昭和14年(1939)長堀店が閉鎖され難波に移転したのは、郊外電車のターミナルとしたのは先見の明であった。大阪出店115周年を記念して、この催しがなされているのだが、高島屋を舞台に数々の物語が花咲いたことがよく分かった。横山大観
『蓬莱山』、竹内栖鳳
『竹に月』、菅楯彦
『鯛あみ』堂本印象
ゴンドラ』、前田青邨
『風神』梅原龍三郎
『薔薇図』、吉原冶良
『丸』、平櫛田中
font-weight:bold">『白寿庵』など高島屋所蔵の逸品が出陳されているのを観ると、儲けを私物せず文物に替えて置くという、企業存続のための蓄財であることが分かる。
高レベルの美術品の観賞は、疲れるものである。
岡本太郎『創生』
―今日のわが愛誦俳句
・
二科を見る石段は斜めに登る 加倉井秋を
―今日のわが駄作詠草
・
高階ゆ疲れて下りる街のなか
雑踏もまた楽しからずや
日本橋筋3丁目高島屋東別館(旧松坂屋)
8599

4