二十四気の一つ、「大暑(たいしょ)」の日を迎えた。このころから大阪は暑さの絶頂期に入る。新世界で長年、飲食の商売をして、不動産で一財産を築いた御仁が、突然、地の神に挨拶をして来たと立ち寄ってくれた。そういえば、この地の氏神である「廣田神社」の夏祭の日である。82歳と馬齢を重ね、この薬の山を見てくれと肩に掛けたバックから取り出して見せてくれた。その昔、税務調査があれば、所得税の何条何項に何が書いてあるか言って下さい。と持ち出し、税務署員がたじろいだら、出直してこいといった気概の持ち主である。その彼が何を思ったのか一代記を語りはじめ、おれは棄てられた人間だと言い出した。唐突に語る数奇な人生を、ノンフィクションなのかどうか、その原点は、シベリヤに抑留していた父が、終戦後5年経っても帰って来なかったことで、死亡したのだと決め込んでいたら、突然女を連れて戻ってきて人生が変わったという。実母は父を怨み自殺。その女に育てられた。そんな家庭環境の所為ではないが、戦後の 学区改正で旧制住吉中学から女学校であった阿倍野高校に編入されたときの僻みが終世付き纏い人生感が変わってしまったということを縷々しゃべりだした。しかし、ルンペンと綽名された伊東静雄(1906−1953)が
『古事記』を教えていたのが奇縁で伊東静雄信者になってしまったという。
太陽は美しく あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあわせ しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であらうとも 私たちの内(うち)の
誘はるる清らかさを私は信ずる・・・
「わがひとに与ふる哀歌」という伊東静雄の詩を朗読しはじめた。ルンペンという死語になってしまった言葉の探求からはじまり当時の世相のことなど、世の中に棄てられた人間があふれていたのは、戦争に起因しているのだということなど2時間近く熱い弁舌を聞いた。久闊を叙してなんだかお互いに若返った気がした。
命があればまた来ると言い残して去って行った。
伊東静雄文学碑「曠野の歌』(大阪府立住吉高校内)

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