古代、「越」といわれた地域は、現在の福井県から新潟県の信濃川まで及んでいて高志(こし)、古志とも表記されていた。敦賀の木ノ芽峠を東に越えて入る地域であるために、越というと薀蓄を垂れたのは室町時代の公卿で古典学者一条兼良(いちじょうかねら1402−81)であると聞く。その道を一気に突っ走るのが北陸自動車道である。着いたところが「粟津温泉」で、大阪を出発して目的地の旅館の玄関にバスが横付けされるのだから結構なことである。かっては北陸線の「加賀温泉郷」駅で降りると、山中、山代、片山津、芦原、粟津各温泉の出迎えバスが旗を持って待っていたものだ。
「越が、〈越前、越中、越後〉にわけられて、ヤマト政権の重要な構成地域になるのは、継体天皇成立(507)よりずっとあとの7世紀半ばになってからである。ついでながら越のなかでのちに〈加賀(石川県)〉とよばれる地は、はるかな後世、室町時代にようやく穀倉の地になったわけで、古代はあまりふるわなかった。」と、司馬遼太郎は、
『街道をゆくー越前の諸道』で述べている。
1300年前に泰澄大師と呼ばれる修験者が白山権現のお告げによって発見したという伝承がある古い温泉場である。硫酸塩という泉質の湯にひたりさっぱりしたあとに、今宵の宴席が待っていた。
忘れられよか 天神橋の たもとにのこる 物語り
ああ あの女も あの女も おもいの糸の 細白糸を
かけるか遠い 都の空に
数年前に逢ったコンパニオン。そして数十年前に逢ったことがあるという金沢妓の老いてなお残り香を感じる加賀の女たちの饗応にすっかり酔ってしまった。
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