夜来の烈しく降った雨が午後になっても上がっていない。晩秋の雨は特にこころを暗くさせるものであるが、一昨日訪れた北摂の隠れキリシタン遺跡の感銘がまだ尾を引いており、一条の光りが射し込んだ如くにこころははれやかである。午後訪れてきた知人に、隠れキリシタンの話をしたら、島原の場合がテレビで放映されたことを話してくれた。いわゆるその信仰は、現在ではどうなっているのかということだが、@カトリック教徒、A仏教徒、B隠れキリスタン時代のままということらしい。神仏を隠れ蓑にして権力から命賭けで守ってきたものを放棄したら、罰があたるという素朴な考えが支配していたのであろう。隠れキリシタンの末裔だという千提寺地区の住人に問えば、この地区は100%曹洞宗徒だという。憲法にある、信教の自由が認められた時代に、頑なに貫く一徹さがここにはあるのだという緊迫感すら考えさせられた。
木製キリスト磔刑像と青銅製筒
山村暮鳥(1884−1924)の
「キリストに与へる詩」と題する詩のなかに
『風は草木にささやいた』という呟きがある。
キリストよ こんなことはあえてめづらしくもないのだが
きょうも年若な婦人がわたしのところに来た そしてどうしたら
聖書の中にかいてあるあの罪深い女のように
泥まみれなおん足をなみだで洗つて 黒い房房したこの髪の毛で
それを拭いてあげるようなことができるかとたずねるのだ
わたしはちょっとこまつたが こう言つた
一人がくるしめばそれでいいのだ それでみんな救われるんだと
婦人はわたしのこの言葉によろこばされていそいそと帰つた
婦人は大きなお腹(なか)をしていた キリストよ
それでよかつたか 何だかおそろしいような気がしてならない
聖書に書いてある罪深い女の話であるが、その罪深い女が救いを求めたことに対する答えの有り方に疑問を投げかけたことで、一つの問題を提起した作品である。キリスト一人が苦しみを背負うことで、皆救われると答えると、婦人は安心して帰っていった。しかし、そんなことで、本当に人が救われるのかと、詩人は疑問をキリストに対して述べ、自分の行為は罪深いものではなかったかと考え込んでしまった。
一昨日の余韻が残っている。晩秋の雨が冷たい一日であった。
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