急遽、東京の孫から学園祭のライブに来て欲しいとの誘いがあった。眠れぬままに早朝から12時半の出番に間に合うように出掛けた。
駒場で生まれた小池泰子の
『駒場の二・二六事件』という10年前に書かれた本があるので書架から引っ張り出してくる。2・26事件に興味を持っていて事件に関係する参考書籍を相当所持しているのだが、そのなかの一冊が表題の書物である。「東京の西に目黒区駒場町という所がある。東を渋谷区、西を世田谷区に挟まれ、崩れた三角の形をした小さな町である。この駒場町は江戸時代は、将軍の鶉狩りの猟場だった。この猟場は明治になり北に駒場農学校(後第一高等学校から東京大学教養学部に変わる)、南西に練兵場や騎兵連隊が出来た。私は駒場町の生まれである。一高から東大に変わった学生たちの姿と共に、騎兵連隊の騎馬や戦車の響き、兵士の隊伍を組んで行進する軍靴の音の中で育った。この駒場町を調べているうちに、不思議なことに、二・二六事件に関わった人々が、何人も住んでいたことを発見したのである。これはその人々の物語である。」と、そのはしがきにある。新幹線を品川駅で降り、山手線で渋谷へ。井の頭線に乗り換えて二つ目の駅で降りる。その日は10万人がこのキャンパスに集ったという。その駅前を逆に坂道を登ったところに、「イエスか、ノー」で有名な山下奉文大将の旧宅があった。山下は2・26事件当時は少将で、軍事調査部長で、昭和天皇が「鎮圧せよ」の命に従わざるをえない立場にあった。山下邸の周辺には、陸軍の関係者が多く住む偕行社があり、決起した青年将校の在住者が沢山いた。その地に立つと、向が丘の緑のなかに建つ大学の時計台がよく見える。「二・二六━あの連中は義士だよ。」と山下は呟いたという。そんなことを考えながら、昭和維新を目指した青年将校と同年輩の秀才たちが大騒ぎしている駒場の地に立って思いに耽っているところである。夜、ホテルに帰って、テレビのスイッチを入れると大阪の府市の首長におおさか維新の会圧勝の結果が報じられていたのは、変化を求めようとする人心の偶然と言えることなのか、はたまた必然であったのかと考えているところである。
・きょうの駄作詠草
散りかかる銀杏の道を歩きつつ去来するのは維新という語を

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