昼前、まだ残暑厳しきなかではあるが、一昨日入った新車の馴らし運転を兼ねて、河内長野の金剛寺に出掛ける。ここは女人高野と呼ばれているが、山奥の僻地にある室生寺が真言密教の道場ととして万人を受け入れたのに対し、行基によって開山されたこの寺は弘法大師が修行をした寺であり、後に後白河法皇の皇女によって高野山から女人参拝の許可を得たという違いがある。それでも、世間から隠れた土地に建てられたこの寺の意外な位置に驚きを覚える。創建当初のことを考えると、ここは、紀州と大和を河内側からみた、間道的な、隠れた道筋だっのであろう。弘法大師が高野山に金剛峯寺を開基したとき、天野山金剛寺と名も似せた真言密教の道場としたといわれている。今は道路が発達して、大阪市内から簡単に車で行けるが、往時は、都にほど遠い辺境の地であったことだろう。
複雑な抗争があった南北朝時代、この金剛寺で南朝三代の天皇(後村上、長慶、後亀山)の30年間の行宮(あんぐう)にもなった背景も理解できる。それに、おかしなことに、北朝側の(光厳、光明、崇光)の三天皇も、一時、同寺内に幽閉されていたという。足利尊氏、直義兄弟の不和で、南朝側に尊氏が和議として、北朝の三帝を囚われの身として利用したのだ。
南北朝とは、『岩波日本史辞典』によると「1336年8月足利尊氏が持明院統の光明天皇を擁立すると、11月後醍醐天皇は神器を渡したが12月吉野に逃れ、神器は偽器と称し両朝併立状態に入る。南朝はそれ以後衰退しつつも北畠親房をはじめとする抗戦派と、室町幕府・北朝権力に不満をもつ一部の公家・武家・寺社勢力に支えられて、後醍醐・後村上・長慶・後亀山と4代にわたり、吉野・賀名生(あのう)に拠って延命した。南朝の存在は反幕府勢力のシンボルとされて内乱状態が続いたが、幕府は義満の代に体制を整えて、その間に和平工作を繰り返し、ついに1392両朝合体に成功。その結果、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する形をとり、後亀山は大覚寺に引退した。のだが、この時代は全国的な内乱期で、権力の分裂にとどまらず、社会の諸分野での変容が進んだ」とされている。
南北朝時代、歴史の綾で奇しくも南北両朝の同座があった金剛寺は、流石に名刹の名に恥じない風格を備えていた。北朝の御座所のある塔頭には重要文化財の「日月山水図屏風」南朝の天野行宮とされる「摩尼院」(重文)には楠正成の軍旗が印象に残る。二十歳のとき此処に来て戦後ずっと坊守をしていて65年いる老女の説明を聞きつつ、『太平記』に伝えられた、桜井の駅でのわが子、正行(まさつら)との湊川出陣を前にした父子最期の別れの場面が目に浮かぶ。「獅子は子を産んで三日もたてば、千仞の谷底に蹴落とす。もし、子にその気力があれば、谷底からはい上がってくるという。お前はすでに11歳である。この教訓を心の底に深く留めておくように」と諭す。縦155センチ、横32センチの大きな旗で、鹿皮に金箔をうち、碁番目の縫いとりがある。「非理法憲天 正成」と読み取れる。この旗印のもとに正行との永訣が想起される。老女は「理は法に非(あら)ず、方は憲に非ず、憲は天に非ず。天には何ものも勝てない」という意味があると説明してくれた。帰宅して『広辞苑』を見れば、「人の力を超えた天道に逆らうことはできないので、それに従って行動すべきであるとの意。」とあった。
青茂れる桜井の大楠公
作詞:落合直人
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
正成涙を打ち払い 我子正行呼び寄せて
父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討死せん
いましはここ迄来れども とくとく帰れ故郷へ
父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん 此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅
いましをここより帰さんは わが私の為ならず
己れ討死為さんには 世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為
仕えまつれよ国の為
その美文が頭をよぎり、門前を流れる天の川に飛ぶ、精霊トンボの乱舞に魅入る。
―今日のわが愛誦短歌
・わが頬を打ちたるのちにわらわらと
泣きたきごとき表情をせり 河野裕子
―今日のわが駄句
・太平記哀しと啼くか法師蝉

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