京都市内では、戦災がなかったので、古くから残っている、町内の地蔵尊のお祭りは盛大に行われていて、伝統行事の一環として現在も続けられている。しかし、大阪市内では、戦災で大部分が焼失してしまい、町内の人々も離散してしまった。特に、現在の阪神高速道路の市内環状線に囲まれた地域は壊滅状態であった。その地域こそ、京の洛中文化とは異なる、浪華の商人が築き上げた特有の文化の粋が集中していたところでもあった。上方の芸能文化として伝承されてきた、庶民の生活の場はあの空襲により、恢燼に帰してしまった。戦後、焼跡には地蔵尊像があちらこちらに転がっていた。その地蔵尊像を集めて仮に祀ったのは、新しくその地にきた住人たちによってであった。地蔵尊像は残り、戦後の困窮生活のなかでもこの日が来れば、町内の有志が寄り集まって、地蔵供養が修されてきた。また、盂蘭盆ではなく、地蔵盆に行われた盆踊りは、楽しい集いの場となり、人びとはゆく夏を惜しんだのだ。そんな地蔵盆が今年も回ってきた。
日本では、地蔵尊といえば、六地蔵像が各地で祀られているのが知られている。これは、六道輪廻の仏教思想(すべての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づいて、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものであるとされている。六地蔵の個々の名称については一定してないが、一応、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いとされている。その姿は、合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などの持物で判別されているようである。
ところが、最近は以前、盛大に行われていた、この地蔵尊での盆踊りも音頭取りと称する世話人がなくなり、あるいは、老齢化して、その後継者も儘ならぬ世の中となり、衰退の一途をたどっており寂しいことではある。そして、この日のために、近所の人が集まり、世話をしていた、地蔵尊も以前からあった祠のなかで顧みられることなく放置されているのを散見するようになってきた。宮本武蔵『五輪書』にいう「神仏を崇(たっと)びて、神仏を頼らず」という言葉がある。― 神や仏は敬うもの。しかし、神仏を頼ることはしない。困ったときに頼むこともあるからといって敬うのでは、真に敬虔なこころを持っているとはいえない。神頼みをしないと決めているからこそ、本音で敬うことが出来るともいえる。一見して高慢にみえても、実は謙虚を表しているようだ。そんなことを考えながら、素朴に子供の成長を、地蔵尊の慈悲心を求めた信仰の衰退をみて考えさせられることではある。
―今日のわが愛誦短歌
・さるすべり咲く残暑の日ばうばうと
髪強ばりて午睡より覚む 板宮清治
―今日のわが駄句
・愛憎の行きつく果てか秋の蝉

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