北条早雲(132−1519)、伊勢新九郎長氏によって開かれた小田原城は難攻不落の名城として天下にその名を響かせていた。3代北条氏康の時代、永禄四年(1561)には上杉謙信、永禄十一(1569)には武田信玄が攻めたが落とすことが出来なかった。上杉謙信は「後北条氏の息の根をとめるのが目的ではなく、関東の諸将に、謙信が関東管領に就いたことを喧伝(けんでん)する」目的があり、信玄の攻城についても、「本気で小田原城を攻めようとしていたようには思えない。威嚇的な出陣であった。」とされ、信玄の本格的駿河侵攻への布石であるという説が有力である。世にいう「小田原攻め」で流石の名城小田原城も天正十八年(1590)には天下統一を目前にした豊臣秀吉21万の軍勢に包囲され、北条氏政、氏直父子は約4ヶ月の籠城の結果、落城する。北条五代の関東支配は終焉を迎えた。
ひょんなことから、滝の畑ダムに行くことがあった。ここ滝の畑は、小田原城主、北条氏直が隠れ住んでいた里である。豊臣秀吉が小田原城を落としたとき、城主氏政の弟氏規は韮山城を守っていたが、知将で数万の豊臣勢をしても陥落できず抵抗を続けていたが、これ以上敵わぬと覚悟して女婿の徳川家康の仲介で秀吉との和議が申し込まれる。有名な小田原評定である。結果、氏政は切腹し小田原城は落城する。その折、氏規と氏直は救われて、共に高野山に入ったが、何時しか滝の畑に隠遁する。如何なる縁で高野山から滝の畑に来たのかは詳らかではないが、高野山の機縁がなければ出来なかったことと考えられている。後年天下人になった太閤秀吉は、北条氏に対して余程、好感を持っていたのか、大名に取り立てようと考えたが、滝の畑で氏直が亡くなったため中止になってしまった。が、氏規の子孫が大阪狭山藩の城主になった。その里は平家の落人の伝説も伝わっていた。北条早雲が、鎌倉執権家の北条氏とは関係はないが、もともと桓武平氏伊勢氏の流れであることから、この北条家とこの隠れ里との何かの繋がりをもっていたのかもしれない。
和歌山県かつらぎ町妙寺(みょうじ)から、かつらぎ山脈を越え河内長野にいたる、主要地方道堺かつらぎ線。木々が深く生い茂り、暗く、涼しく、石川沿いの渓谷の急峻な山道を下って行くと、大滝、御光滝、荒滝など多くの滝がある。その深い森林を抜けると、7つの集落からなる滝畑地区に辿り着く。滝が多いことに由来する滝畑には18世紀ごろに建てられた茅葺きの民家が多く残されており、おおよそ、大阪府下にこのような隔絶された秘境集落が存在する事自体がおどろきである。
随筆家・白洲正子氏が「日本のかくれ里も、ここ滝の畑に極まる」と『かくれ里』の中で述べている。が、そのような歴史が秘められた里のほとんどがダム湖の底に沈み今は、ない。
僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じネクタイをして
昨日と同じように貧乏で
昨日と同じように何にも取柄がない
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
黒田三郎(「僕はまるでちがって」より部分)
―今日のわが愛誦短歌
・忘ればやしのぶもくるしかずかずの
思ひいでてもかえりこぬ世を 後村上天皇
―今日のわが駄句
・夏帽子捨て処なく其処にある

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