森琴石(もりきんせき1843−1921)明治大阪画壇を代表する文人画家・銅版画家で、明治10年ごろを中心に銅版技法により、地図や本の挿絵に精緻な銅板画を描いた。特に『大阪名所独(ひとり)案内』は明治初期の大阪市街にある名橋、神社仏閣、文明開化の象徴である学校、工場などを精緻な銅版画に残されていて、一世紀半経過した現在と比較すると、当時の様子が覗き見られて、面白い。熊田司・伊藤純編の『森琴石と歩く大阪ー明治の市内名所案内』を捲りながらある記事が目に留まったので早速、現状や如何にと興味をそそる。
「妙法寺老松ーお稲荷さんからお寺さんへ」という項目があり、浪速区の「赤手拭稲荷社」から谷町9丁目の「妙法寺」に移植された松の木のことが書かれている。昔は、赤手拭稲荷社の手前まで海が迫り、堤防があって「波除(なみよけ)松」と呼ばれる見事な松並木があった。その松の枝に赤い手拭を掛けると願いが叶うと信じられて評判になっていた。いつしか盛んに赤手拭が奉納されて「赤手拭稲荷」と呼ばれるようになったという。その松が谷町の妙法寺に移植されたのは、赤手拭稲荷社付近が西へどんどん埋め立てられて行き、波除けの松並木も不要になり伐り倒されていく。そして、その中の一本が森琴石が訪れたころには立派な老松となり残っていた。それが、妙法寺老松として、寺町界隈の名物になっていた。寺の東には井原西鶴の墓所がある誓願寺があり、西鶴もこの松を観賞したことだろう。一万句を一夜で物する頭脳の持ち主であるのだから、その俳句のなかにこの寺の松が吟じられているかも知れないが詳(つまび)らかではない。
残暑いまだ厳しきなかを、谷町9丁目にある妙法寺を訪れる。戦後、谷町筋として拡張された上町とこれも拡張された千日前通りとの交差地点が谷町9丁目である。そこを北へ、その東側に面した名刹が妙法寺である。戦災を免れたのか、風格のある寺院だ。おそらく森琴石も門前に佇み、老松を観賞して、銅版画に留めようと絵ごころが掻き立てられたのだろう。その門前から本堂伽藍を背に聳える一本の老松の構図に当時を偲ぶよすがを感じることは出来ない。松は枯れていまは小ぶりの松があった。ふと南側に句碑があることに気づく。「御命講や油のような酒五升」とある。芭蕉が貞享5年(1687)この法華宗日蓮宗)の妙法寺を訪れた際、丁度、日蓮上人の命日の法要に巡り合わせて、酒を勧められたときに詠んだ句とされている。誰も居ない静けさから、山門を出ると、谷町筋を疾走する車の騒音のなかに投げ込まれる。
足を転じれば、そこから西方、2、3キロの所に、赤手拭稲荷社がある。ここから望むと遥かに茅淳の海と言われた難波津の浜が迫っていただろう。勿論、白砂青松の地であった筈だ。大阪市浪速区稲荷町という地名だけが残る。今は、猫の額としか譬えられない小祠であり、かっての殷賑が伝えられたことは、虚構であろうとしか考えられない淋しさになっている。ただ、赤手拭稲荷社のいわれの赤手拭を掛ける松はなく、代りに御手洗の手拭として赤手拭が涼風を誘うようにあった。時の移ろいを感じながら、うたた感慨にひたる思いになる。偶々、この赤手拭稲荷社に縁のある人にこの話をすると、松の因縁のことは知らなかったと言われ、意外な顔をされた。風化していく話は哀しい。
―今日のわが愛誦短歌
・ぶるうすをひとたび踊り別れしが
家をも名をも知らざりにけり 山本友一
―今日のわが駄句
・高値つく秋刀魚つつけり空耳か


34