戦後、まだまだ戦争の爪痕が、あちこちに残っていた頃の話である。いま思い出せば、物心両面にわたり人間模様の可笑しさが辺り一面に転がっていた時代であった。町内で骨董店を営む人の人生もまた可笑しいものであった。天王寺区の茶臼山は大阪の陣の折の徳川家康が本陣を置いた場所として有名である。そこに河底池なる池がある。茶臼山は住吉区の帝塚山、生野区の御勝山と並ぶ大阪市内の三大古墳と呼ばれ、上古以来の荒陵であり、四天王寺の山号になっている「荒陵山」は、これから付けられたようである。その「河底池」を借景として雲水寺、正しくは邦福寺と呼ばれる黄檗(おうばく)宗の寺があった。その寺の住職、古田覚成師は何を考えてのことか、天王寺区選出の大阪市会議員選挙に出馬、予想に反して、当選してしまった。選挙運動に一文も使わぬ「雲水寺の坊主」のキャッチフレーズが効いたのだろう。大阪市会議員の任期は4年ある。無一物、無欲恬淡(むよくてんたん)の禅坊主のイメージで無党派層の支持で市議会の無所属議員として市政に携わる生活が始まった。高潔の士から俗物卑俗の輩の世界に飛び込んでしまった。現在は知らないが当時では、議員の利権が各員にあり、大阪市の施設への参入には、それぞれの利権があり、たとえば、市電の広告出展には、あの議員、遊園地の売店入居への依頼などはこの議員へと、いろいろな利権が暗黙に付加されていて、一度議員になれば、辞められない構図になっていた。その権利は、表向きの議員報酬の数百倍に上るという噂もあった。そのなかに、雲水寺の無一物坊主にもとある利権がついた。市会議員となれば、選挙民から種々の依頼ごとがあり、それに応えられなければ、次の選挙に落選の憂き目に遭う厳しさが待っている。雲水寺の坊主も選挙民からの依頼要請に翻弄される。自身が手に負えぬ依頼の件には、その利権を持つ議員に依頼しなければならない物々交換の原則を利用しなければならない。上手く考えられた悪知恵ではあるが、当然、高低差があるが、実力者の支配に抗うことが出来ない仕組みがあったようだ。
荒木傳『大阪の寺ー近代こぼれ話』のなかで「斎藤茂吉の歌会に出た杉浦明平」という項目がある。小説、評論家の杉浦明平が東大国文科入試に合格したのを機に関西方面に一人旅の途次、天王寺駅を降りて茶臼山の雲水寺で「アララギ」の大阪歌会が催されていることを知り、飛び入りで参加を申し込む。当日の参加者は90人ほどがあり、女性の多いのが目についた。そのなかで、ひときわ目立った美女がいた。高安国世(歌人、京大教授)の母、高安やす子だった。歌会で滋賀県の中学教師の「見合いより帰り来たりて友に言う只平凡なる世間話の如し」の短歌作品に「まあ、これ、いやいやながらのお見合いだったのね?」高安やす子が発言した。「いや、逆に喜んでいる心境を詠んだのではありませんか」人前でモノを言うのが何となく気おくれする性格の、杉浦明平だったが旅の気安さも手伝って生意気に反駁を試みた。年はずいぶん違うが、その美貌に唆されて、つい気負いこんでしまった。歌会のあと宴席があり、雲水寺境内の一部が、南地の「大和屋」所有の「坂口楼」になっていて、そこで、一席持たれた。さらに、ミナミに繰り出し、歌舞伎座裏の「菊乃家」バー「ヴィーナス」とすっかり無礼講になってしまった。艶を含んだ切れ長の目、それでいてどこか理知的な冷めたさの漂う高安やす子のそばへ杉浦明平が寄って行くと、「ねぇ、ときどき大阪へ来て、新しい所を吹き込んで下さいよ」とお世辞と分かっていても、若い杉浦明平をすっかりうれしがらせた。斎藤茂吉が女性の胸に手を入れて、巫山戯(ふざけ)ているのを見た時には強いショックを受けた。「ね あんた こんなところへ 来てはもうダメよ」と言われ打ちのめされた気になる。
雲水寺の坊主は4年の大阪市会議員を務め、再選を目指したが、落選してしまう。あとに、二号が残されて、雲水寺を逐電(ちくでん)してしまった。純真無垢の変人に何があったのかは理解し難いが、俗物に変身してしまったのだ。彼の息子はその二号の女性を憐れみ、親父の残した骨董品を資本に骨董屋を開店した。近所付き合いの世間話として、杉浦明平であるか定かではないが、高名な斎藤茂吉のことを覚えていて、昔話のなかで、聴かせてくれた。年を経て、骨董屋を畳んで箕面の地に引っ越して行って30年以上になる。が、その後の消息は知らない。餞別に頂いた、二羽の雀の油絵が、ひっそりと居間に残されている。
―今日のわが愛誦短歌
・みじめなる日々といふとも学びたき
物多くして時をおしみつ 高安国世
―今日のわが駄句
・連日の残暑に喘ぎ凡々と


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