将棋を教えてくれたのは散髪屋のオッサンである。小学校の3、4年生のころであろうか。戦後の焼跡に建ったバラックで、日中、糧秣稼ぎに狂奔した住民たちが、夏、夕刻になれば道に水が打たれたところに集まって来る。そこには縁台が置かれ近所の人々の夕涼みが始まる。まだ、日本橋筋に市電が走っていたころである。その日の疲れを癒し、明日への英気を養うために、体を夜露で冷やして寝つき易いようにするための江戸時代以来の伝統的な消夏法があったのだ。エアコンなど考えも及ばぬ、すでにあった扇風機など、高根の花の時代のことである。自転車屋、建具屋、工具屋、洋服屋、呉服屋、小間物屋、下駄屋などの衣、住関係の商売に、うどん屋、ぜんざい屋、酒屋、コ―ヒ屋、めし屋、飲み屋などに混じってラジオ屋、サンパツ屋もあった。日本橋筋にはまだ電器屋が存在しない、夜明け前の静かな町並みがあったのだ。大人たちに混じって子供たちは、線香花火に興じていた。そんななかで、大人たちは将棋に熱中していた。子供にはその勝負が賭け将棋であることは知る由もなかった。知らぬ間に通行人も参加していたのである。その将棋の勝ち頭がサンパツ屋のオッサンであった。滅法強く、飛車角落とし、金銀を落としてのハンディをつけても敵う者は少なかった。ある時、そのオッサンに教えられてやっと覚えた打ち方であるが、歩三個で相手したろかといわれ打つと5分もしない内に見事に負かされてしまった。先ず角の前の歩に歩を打たれ、それをとると、そのあとに歩を打たれ角をくれとなる。今思えば、最初に指された歩を取ってしまったのが間違いであったのだ。酒が好きなそのサンパツ屋のオッサンは6人の子供を抱えて、戦後の混乱期を懸命に生きていた。上3人が男の子、次は女、女、最後は男の子と、結果は上と下が親子ほど離れる一番下の子が職を継ぐのだが、上の5人にはなぜか逆らわれるという淋しい晩年であったようだ。その女房のことに触れると泣けてくるので勘弁願いたい。
ことわざに「取ろう取ろうで取られる」というのがある。ひとつ勝ってやろうと思って賭ける。勝てばよいのだが、負けがこんでくると、今度こそ取り返してやろうと、また賭ける。その内に全部やられてしまう。むかしからよく聞く話である。賭けごととはそのようなものである。深みにはまる前に、今日は取れないこととあきらめることが肝心なことである。サンパツ屋のオッサンは遂に人生を狂わせてしまった。「銀が泣いている」は、坂田三吉が残した言葉。坂田三吉は読み書きも出来なかったが、こと将棋に関しては独特の感性を持っており、天才棋士であった。その坂田三吉が、宿敵の関根金次郎と対局したとき、銀の指し手を間違え「銀が泣いている」といった。さりげない言葉だが、駒と自分が一体になっていなければ、なかなか出てこないことばである。三吉にとって銀は単なる将棋の駒ではなく、自分の身体の一部であったと思われる。村田英雄歌う『王将』の科白(せりふ)ではないが、将棋の駒に賭けた命を笑わば笑えの坂田三吉の心境にサンパツ屋のオッサンもなってしまったのか、奇怪な人生を送った人物であった。
日本橋筋3丁目堺筋の西側、今春まで陸橋が敷設されていた辺りに・爛間を彫る店があった。爛間(らんま)―日本家屋の天井と鴨居(かもい)との間の開口部のことで採光、通風のために設けられ、そこには格子や透かし彫の板などをはめて装飾も兼ねた。杉板に彫られて行くその見事な職人芸に見とれている人だかり傍で、折りたたみ台を取り巻いて、そこでなされている賭け将棋にたむろする一団があった。その胴元が、サンパツ屋のオッサンのなれの果ての姿であった。さくら役を使ってのその日の稼ぎに身を落としていた。そんな戦後の一瞬の人間模様を想い出しながら、市電が走っていたころの人たちの顔が浮かんでくる。残暑厳しき折ではある。縁台での夕涼みの風情もない。
―今日のわが愛誦短歌
・めん鶏(どり)ら砂あび居たれひっそりと
剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり 斎藤茂吉
―今日のわが駄句
・赤まんま戦災遁れし寺の前


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