とある会の研修会に出席した。今年は岐阜長良川の鵜飼見物で浩然の気を養って来た。午後に大阪を出て、早目の夕食を取り、鵜飼見物に出かけるという予定になっている。
「コヽニ鮎ノ腸(わた)モ取ットキマシタヨ」ト、婆サンガ云フ。婆サンハ焼鮎ノ骨ヲ綺麗(きれい)ニ抜クノガ得意ナノデアル。彼女ハ頭ト骨ト尾トヲ皿ノ一方ニ片寄セテ、身ヲ一片モ残サズニ猫ガ舐(な)メタヤウニ食ベル。ソシテ予ノタメニ腸ダケヲ残シテオクノガ習慣ニナッテ井ル。」谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』の冒頭の文章がこれである。旅館の夕食には予想通り焼鮎が饗せられていた。婆さんのように焼いた鮎の骨を見事に抜くことは出来ないが長良川の鮎の馳走を味わった。
「あ、あの篝火は鵜飼船だ!」と私は叫んだ。・・・そして、私は篝火をあかあかと抱いている。焔の映ったみち子の顔をちらちら見ている。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい。」これは、川端康成(1899−1972)の
『篝火』の一節である。
母の故地である、長良川の鵜飼を望みながら、空襲で焼け出され、大阪から岐阜に疎開した70年前のことを次々と思い出していた。夏のわずかな時期ではあったが、岐阜の親戚に連れられて望み観た鵜飼舟の情景が思い出される。
「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」とは人口に膾炙された松尾芭蕉の句を想い出すまでもなく子供の眼に映る鵜飼の光景が懐かしい。
花火が打ち上げられて、鵜飼舟が近づいて来る。鵜が鮎を採る様子が水にきらめいて篝火に浮かぶ。その幻想的な風景を見ていたら戦後この地でひと夏過ごしたことが蘇って来る。あの頃の人の顔。戦地から復員して来た人の顔。川原に蛍を追いかけたことなどが懐しく甦る。岐阜の夜は静かに更けていった。
・きょうのわが駄作詠草
七十年幾星霜を想いけり戦終りて鵜飼い見しこと


13