岐阜の旅の疲れはまだ残っている。
「老い痴(し)れてただに目(ま)たたきして過ごす我とはなりぬあるか無きかに」のような窪田空穂(1877−1967)の老残は曝していないものの疲労の回復は遅く切なさが募る。事実、もっと歩くようにと娘に進言してくれた人がある。よっぽど金華山への登攀に目にあまるものがあったのだろう。
昭和20年(1945)3月の大阪大空襲で罹災して母親の故郷の岐阜市郊外に疎開。一学期を地元の国民学校に転校。その間夏休み終了後、終戦を迎え二学期が始まるとともに帰阪。終戦まで5月名古屋城の炎上を遠望。また7月岐阜市の空襲など迫り来る戦火に追いまくられていたが終戦で命を長らえることが出来た。そんなことをいろいろと想い出すことが出来た旅であったことで疲れが出たのであろう。
・きょうのわが駄作詠草
百日紅違う色にて咲いているあの花何かと問えば百日紅


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