地蔵盆がやって来た。日ごろ閉ざされた祠の戸が開かれて、鈍い晩夏の光が射しこんでいる。戦災で彼方此方の焼跡に棄てられたまま転がっていた石仏が、篤信の人に拾われて各町内に祀られた。地域の児童の守り神としてその健在を祈念して年一度の縁日にあたるこの日に開扉される。その祠の前には沢山の供え物をしつらえて世話人が侍っている。そんな光景を年々歳々積み重ねて来たのだが、最近では世話人の老齢化と後継者の無人化で次第に存続させようとの気運が薄れてきているようで祠に閉じ込められたままの無縁の石仏があちらこちらに見られるようになっていて寂しいかぎりである。
祠の前を歩いていて呼び止められたので、出されている縁台床机に腰を掛ける。出されてきたアイスキャンデーを舐めながら昔話に花が咲く。女性ばかりに取り囲まれていても老女ばかりなので気兼ねなく話が弾む。この前で盆おどりをしたことが話題になった。鳥追笠のS女の話が出た。私も一緒に踊っていたと一人の老女が言い出した。まじまじとその顔を見つめる。見覚えはないが、かっては美形の目鼻立ちが想像できる。突然、ロシアの詩人で夭折したセミョーン・ヤーコブレヴィッチ・ナードソン(1862-1887)の詩を想い出した。
ある人の死に寄せて
わたしに告げるな、あの人が死んだと。
━あの人はまだ、生きてゐる。
いけにへの壇は こぼたれても、
━炎はやつぱり 燃えてゐる。
薔薇はむざんに もがれても、
━花はやつぱり 咲いてゐる。
たて琴の 絃(いと)は切れても
━調べはなほも 泣いてゐる。
この詩は、神西清が訳したもので、教えてくれたのが大学で哲学を専攻していた後輩であるのだが、後年、その鳥追笠の女性が今、腰掛けている地蔵尊の祠の前にある桜の木で縊死(いし)したことを話したとき口をついて出た詩を書き留めたことがあった。彼は亡くなって久しいが、今、目の前にいる老女はその鳥追笠の女性が縊死した経緯を知っているのだがここではよくないと口をつぐんでしまった。
ことしの地蔵盆での寸感である。
・きょうのわが駄作詠草
処暑という夏が終るということば花火見に行く淋しさに似て

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