秋の彼岸の中日。ようやく晴れ間が見えたのでお参りに出かけた。天神坂を上り、伶人町から境内に。露店を縫うように立錐の余地がないほどの人の列が続くのは今も変わらないようだ。60年も前の子供の頃から母親に連れられて、こんなに多くの老人たちがぞろぞろ西門を潜って境内に入って行くものだと、その奇妙さに首をひねったものだが、その老人たちと同じ年嵩になっている自分のすがたを考えてみると妙な塩梅になっている。
上方落語に
『天王寺詣り』という笑福亭一門のお家芸がある。そのなかで、4代目松鶴の絶品の話術が耳に残る。
「彼岸中やさかいに、殺生はしたらいかんということやったんですな。“彼岸て、何だんねん?”“天王寺さんで、無縁の仏の供養をしなはんねん。引導鐘をつくと、十万億土へ聞こえるというなあ。”“天王寺のやまこ坊主が。うちと、天王寺さんと、ほん近くでっせ。そやのに、ついぞ聞こえたことがない。それが、十万億土てな遠いとこに聞こえる訳がない。”って、そらそやわ。十万億土いうたら、この世から極楽に至るまでの世界のことですもんな。この、“やまこ坊主”ちゅうのは、“やまこはる”の“やまこ”、つまり、はったりとか、見得とかいう意味ですなあ。“ご出家は、十万億土の道を教えなはんね。”“わたい、この前、心斎橋筋歩いてたんだ。すると、向こうから来たぼんさんが、もうし、八幡筋へはどない行たらよろしい。八幡筋の分からん坊主が、十万億土の分かりそうなはずがない。”って、これも尤もや。」というような駄洒落が次々に飛び出してくる。
突然、わが名を大声で呼ぶ声がかかった。雑踏のなかで振り返ると、木津卸市場の生鮮食品の売り場で店員をしているベテランの知り合いだった。知り合いのオバサンがワラビ餅と心太(ところてん)を売っているのを手伝いに来ているのだという。年季の入ったさびた声である。隣りにいた妻が験(げん)をつけるために二皿買った。「ところてんも持って帰るので黒蜜ネ」と行ったら心太の何たるかを知らない若い人たちが興味を示したのか、忽ちに店を取り巻いてしまった。商売繁盛で良かったと妻も満足そうであった。
・きょうのわが駄作詠草
生活の苦しさ秘めて其処彼処に美しき顔美しき声

1656

4