昨日は終日冷たい雨が降る大阪市内であったが、きょうは風は冷たいが春の陽光が街を明るくしている。ひかりにつられて昼間の新世界界隈を歩いた。通天閣を中心に動物園、美術館、飲食店と昔からある名所に混じって昨今ではビジネスホテルが幅を利かし始めているようだ。そんななかから出て来たのだろうか、ちょうど通天閣の下で待ち合わせていた地方から遊びに来たのだろう、5、6人の老男女が、「ぜんざいでも食べに行こうか。」との誘い合う声が耳に入った。新世界と串カツは今では定番になっているのだが、「ぜんざい」とは、と泪がこぼれそうななつかしい会話がまだ生きていたのだと、そのグループの顔をまじまじ見てしまった。農作業で鍛えたのだろう、骨太で日に焼けた頑強な体型は、都会生活者とは雲泥の差があるすがたで、かって軍国時代、世界を風靡した日本軍兵士の強靭さと銃後を守った婦人を思わせる体型でもあった。
ぜんざい(善哉)とは、豆(主に小豆)を砂糖で甘く煮た日本の食べ物である。大阪の法善寺の横に織田作之助も小説に書いた「夫婦善哉」という店がある。ぜんざい一人前を二つの椀で出すことから夫婦善哉という。
戦後すぐのこと、近所に「ぜんざい屋」があり行列が出来る繁盛店であった。当時、ぜんざいを作って商売できる砂糖、小豆(あずき)がふんだんにあったのかと後年思ったことがある。
『戦争中の暮らしの記録』という暮しの手帖社が編集した記事を想い出す。学童疎開中に親から差し入れられたお手玉のことで、なかにある小豆を取り出して煎って食べたという。戦後はさらに砂糖どころか小豆すら欠乏していたはずなのに、何故、入手できたのかを思いめぐらせたりした。要は、取締り当局の目を潜っての商売だったが、好事魔多しか、経済犯としての取り締まりに遇い何時しか一家離散してしまった。
ジャンジャン横丁で20年前ごろまでぜんざい屋をしていて、大峰山で法螺を吹いていた人物のことをふと想い出した。店頭で餅を焼き、ぜんざいに入れて評判をとった人物であるが、戦後、近隣でぜんざい屋をやっていた人の話をしたら、全部まで言うなと話の腰を折られてしまった。その焼き餅を入れたぜんざい屋も今はない。通天閣の下の老人たちは、一体、どこに行ってぜんざいを食べようとしているのか、もう一度それぞれの顔を見て別れた。
不意に遇い不意に別れて涙する失われたる善哉汁の甘さを

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