歴史に興味がある孫たちを京阪奈に跨る日本歴史の故地に案内することになった。神代時代の神武がら関った歴史上の治乱興亡の数々のなかで安土桃山の戦国時代にあった本能寺の変をめぐる織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康の暗躍の地が国道1号線沿いに絡んでいるのでその辺りを徘徊することになった。「敵は本能寺にあり」で天下人、信長を暗殺した光秀を討つために中国の毛利征伐を欺いて一路、大返しを断行して天王山に結集させた秀吉は光秀と対峙。奈良郡山から馳せつけた筒井順慶〈1549−1589〉が洞ヶ峠から、どちらに付こうかと日和見を決め込んだところに茶店があり、そこからその地形を閲して、名物特産の藁草履ほどの大きなぼた餅を齧りながら順慶の心境を考える。
その間、安土城に信長を表敬訪問していた家康がその接待役を勤めた光秀が苦心のご馳走にと差し出した「鮒すし」の匂いを嗅いた信長がこんな腐ったものを出すとはと烈火のごとく怒って人目も顧みず光秀を打擲(ちょうちゃく=人をぶつこと。なぐること。)を受けて堪忍袋の緒が切れて(かんにんぶくろのおがきれて=もうこれ以上はこらえてしのぶこと)信長暗殺に走ったとされている。家康はそのあと堺に滞在していたのだが、その報を聞くと、船による三河への最短距離を採らず、生駒山麓に沿い、四条畷付近から光秀、秀吉の対決を近くに感じながら服部半蔵など伊賀忍者の手引きの伊賀越えで三河に無事帰還したとされることなどを話しながら京田辺の木津川に架かる木橋の通称、流れ橋(上津屋橋〈こうづやばし〉)に向う。
洪水のときに流れ出す構造となっているこの木橋の存在は、日本の魅力的な原風景がよみがえって来るということでか、かなりの見物人が橋長356・5m 巾員3・3mの橋を渡っていた。テレビや映画の時代劇の撮影に好都合なのか遥かかなたに東山三十六峰が望見することが出来る好スポットでもあるようだ。
堤防に咲きはじめた辛夷(こぶし)の白い膨らみを見て春が真近に迫っている様子がよみとることが出来た。
山城の国を流れる川渡るみかの原とは大和への道

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