江戸時代の初め、福井藩に奥田無清(おくだむせい)という、隠れキリシタンの街医者がいた。彼は、キリシタン禁教令に逆らい、隠れキリシタンの信者であったが見つかり、寛永20年(1643)福井藩の江戸屋敷に護送され拷問の結果刑死したであろうことが古文書にある。その無清が隠し持っていたイタリアの画家が描いたという
『悲しみのマリア』が大阪北区中津の「南蛮文化館」で公開されていることを知り観覧して来た。
この「南蛮文化館」を訪れたのは敢えて久しく現在、周辺の街並みのなかにその建物を見つけるのに苦労した。今は5月と11月のそれぞれ一ヶ月開館されていると聞くが、当時は訪れる人がないのか、「頼もう」「どーれ」といった感じで拝観が許されていたことを想起する。早速、館内の電灯が灯され、そのときの館長直々に懇切丁寧にその該博ぶりを披露してその熱意に恐縮した次第であった。まだ存命していた作家の司馬遼太郎も突然訪れて来て、いろいろしゃべって行くほどの誼(よしみ)があったらしい。
受付でその人は達者かと訊ねると10年ほど前に亡くなったとのこと。その館長が蒐集したのだろう、「悲しみのマリア」が折りたたまれて竹の筒に入れられ傷ついたままの状態で土壁のなかから発見されたものが目の前に展示されているのを見て、、じっと弾圧に耐え、息をこらしていた苦しみを実感出来たのもあの館長の計らいがあったことが理解できた。あのときこんな宝物をいっぱい持っていて、余計なことではあったが、あなたが亡くなったら、相続、管理はどうするのかと訊いたらたら大阪市にでも寄贈しようかなと嘯いておられたが娘さんが立派に管理されているようであった。深紅の薔薇が今を盛りに咲いているのを眺めて、タテ55・5。ヨコ40・0の実物大のマリア画像の複製を買って来たのでそれを額にして、300年間、息をひそめた信者の祈りを考えてみたいと思った。
ゆるせとは神の教えと思いたり南蛮屏風の人々の顔

7068

8