承前。 此処まで来たのだからと、弥生キャンパスから本郷キャンパスへの陸橋を渡る。スカイツリーから此処までの案内は息子夫婦で、弥生キャンパスからは孫も合流して案内してくれた。陸橋を渡ったところが工学部であるらしい。義妹は何処も初めてなので、先ずは有名な安田講堂に向かうことに。銀杏黄葉(いちょうもみじ)の大木の並木が構内を占めている。落葉喬木で、扇形の葉が互生して黄色に色づくこの晩秋の空の藍色が深みを帯びる季節が仰いでみるとまことに美しい。昼食がまだで、学生食堂を探したが土曜日で休みであった。講堂の右手に巨木があった。これは欅であるらしい。講堂の下に降りると、生協があり、妻はいろいろ土産ものなどを調達しているようであった。
司馬遼太郎の
『街道をゆくー本郷界隈』に、三四郎池を書いた箇所がある。曰く、
「本郷の大学構内に入って、三四郎池の池畔に降りてみた。池の水面は、台地よりずっとひくい。池畔からみると、まわりの山々の樹叢は深い。むろん、山々は築(つ)かれたものである。加賀前田家が本郷のこの場所に広大な屋敷をもらったのは大坂夏ノ陣(1615)がおわってからで、本格的に造園がはじまるのは、三代将軍家光の寛永15年(1638)からといわれている。このころに、池が掘られた。」と。
夏目漱石による小説
『三四郎』では、池畔で、三四郎は美禰子(みねこ)に会う。厳密には、三四郎のほうが一方的に彼女をみた。看護婦につき添われ、医科大学の方角の岡の上から散歩してきて、三四郎の前をとおるとき、白い花をおとして行った。その描写のような光景が三四郎池を眺めていたら今も想起することが出来る。
そして、作品によれば、三四郎は、美禰子が、結婚することを知る。彼女が教会にいることを知って外で待つ。彼女から借りた金を返すためであった。もはや借金を返済するということ以外に美禰子とのかかわりはなくなった。やがて、吾妻(あづま)コートを羽織った美禰子が教会から出てくる。本郷四丁目の日射しが彼女をつつんでいる。
「女はややしばらく三四郎を眺めた後(のち)、聞兼(ききかね)るほどの嘆息(ためいき)をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加えていった。「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」(『旧約聖書』詩篇第五十一篇)聞き取れない位な声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った」これが、三四郎の淡い恋のおわりである。
赤門の前に中華食堂があった。餃子が美味しいらしい。孫によれば一度入ろうかと思っているのだが、学食と比べると手が届きかねるというのでそれではと、閲することになった。しかしそこは5時からの営業でもう一軒の中国料理の店でコース料理ということになり、またも馳走になったが、仕送りやバイトで賄っている現代の学生も、地方から上京してきた三四郎と合い通じる慎ましさがあるものだと思ったりもした。勿論、義妹も充実した日々を喜んでくれ、足元にきをつけるよう、階段では手摺りを持つよう、食事では飲みすぎないよう気遣ってくれた。義妹は若い一時期、豊中で教員をしており(その後は岡山で教師生活を送った)、お兄さん、お兄さんと大事にしてくれる。ありがたいことである。
眼つむればまぶた重たし本郷の四丁目あたり秋惜しみいる

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