晩秋の近江路に入ると、紅葉にはまだ少し早いが、宇治から瀬田に抜ける道もちょっとした色づき模様であった。山装うにはまだまだ、薄々化粧であった。
滋賀県立近代美術館で白洲正子生誕百年特別展「神と仏、自然への祈り」というテーマの展覧会があるので出掛ける。手元の昭和49年(1974)初版、白洲正子『近江山河抄』の冒頭に彼女が近江路に魅せられた心境が書かれている。貴族階級出の彼女の随筆は素直で好感が持てる。
「子供の頃から関西へ行くことの多かった私にとって、近江は極めて親しい国であった。岐阜を過ぎてほどなく汽車は山の中に入る。やがて関ヶ原のあたりで、右手の方に伊吹山が姿を現わすと、私の胸はおどった。関西へ来た、という実感がわいたからである。大和絵のような丘の間を縫って、平野に出ると、霞のあなたに琵琶湖が見えつかくれつし、その向うに比良山が横たわっている。雪を頂いていることが多かった。つづいて比叡山、、そして、京都。何十ぺん、いや何百ぺんとなく見た風景であったが、それは汽車の窓から横目で見てすぎただけのことで、近江は長い間未知の国にひとしかった。」
細やかな近江への愛情を読みとることが出来る。
この文章を読みながら、私にもここに書かれている同じ風景でありながら同じ情景ではない少年時代に見た風景が重なる。昭和20年3月13日の大阪大空襲で罹災して、母の故郷の岐阜の親戚を頼って疎開した時のことである。、その重なり方は、辛くて、悲しい。8月15日の終戦後、いち早く大阪へ帰ったときの、滿員列車もまた同じ行程であった。
近江は父の故郷ではあるが、白洲正子が持っていた近江への郷愁はなかった。当時、子供の目に映る車中と車窓の風景は、殺気立った大人たちの得体の知れない行動だけだった。私は恐ろしさを感じながらじっと息を殺すしかなかったのだ。帰阪するために乗った東海道本線が岐阜を起ち、北陸本線との分岐点・米原につくと周りが一変する。ヤミの買い出し隊が我先に、通路を占拠して行く。北陸米、近江米の産地はヤミ米の供給地に変貌しているのだ。戦災を免れた京都人は、衣類その他の物資との物々交換を思いつき、せっせと糧秣稼ぎに明け暮れていたのだろう。やがて、逢坂山トンネルの前後に差し掛かると、一斉に、ヤミ米その他の物資を汽車から外に投げ捨てた。その時は車内は戦場さながらの凄しい光景が展開された。警察の取り締まりをキャッチしてのことだろう。そんな光景は今も瞼にきっちりと焼き付いている。後年知った。大人たちは食べるための、そして、家族を守るための戦いをしていたのだ、と。
近江は、古来、戦場であった。壬申の乱、源平合戦、戦国時代と日本歴史の帰趨を決める治乱興亡の戦乱が繰り返された土地である。今回、白洲正子「神と仏、自然への祈り」展が「瀬田の唐橋」を制する者は、天下を制する、と云われる「瀬田」の滋賀県立近代美術館が会場になったのも何らかの意味ありか、と深読みしてしまう。@自然と信仰・A西国巡礼・B近江山河抄・Cかくれさと・D明恵・E道・F修験の行者たち・G古面と各分類されたコーナーを、真野響子の音声ガイドを聞きながら、白洲正子が著作した世界をたどっていく。西行の「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに泪(なみだ)こぼるる」の境地になって書いた「神と仏、自然への祈り」が理解できる。
帰途、瀬田の唐橋を渡り、近江八景・勢多(瀬田)夕照(せた の せきしょう)と古来より人口に膾炙する瀬田川畔をドライブしながら、白洲正子が愛した近江山河を偲んだ。
―今日のわが愛誦短歌
・淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば
心もしぬに古へおもほゆ 柿本人麿
―今日のわが駄句
・わが父祖の地や欠伸でてしぐれいる

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