街を歩いているとふと懐かしい曲が聞こえてきた。その旋律は戦争が終わって半年が経ったちょうどいま時分のことを想い起こす。
前年、3月13日夜の大阪大空襲で、罹災したわれわれ一家は、母の遠戚を頼り、岐阜羽島に疎開していた。8月15日の終戦で、二学期から間に合うようにと、父が松田町に焼け残った家を見付け、大阪に帰ることが出来た。
いま思うと、超住宅難の折、よくも市内に見付けることが出来たものだと、その才覚に感心する。その家は二階建で、通り土間があり、奥は庭に通じる、典型的な戦前の大阪の町家であった。町内には空襲を免れた人が住み、そこを頼って来た人たちで、通学校区の天下茶屋国民学校(そんな呼称があった)小学校は超過密で一学級50人を超す生徒で授業が為されていた。当時、近所の銭湯は、芋の子を洗うような状態であった。夜は、敵機来襲による灯火管制ならぬ、電力不足による断続的な停電が続いた。疥癬(かいせん)という伝染性の皮膚病に罹り、進駐軍の兵士が土足で日本座敷に上がり込み、部屋、人に所構わずDDTを散布して行った。まだまだ混乱した時世であったのだ。
そのなかで、前時代の老人たちから教わったのか、付近の子供たちはいろいろな「わらべうた」を唄い遊んでいた。その音曲が耳に残っている。そのなかには
日露戦争後のてまり歌。
「一列談判ハレツして、日露戦争始まった、
さっさと逃げるはロシアの兵、
死んでもつくす日本の兵・・・」
や、皇紀二千六百年の歌。
「金鵄(きんし)かがやく日本の あいこでアメリカ ヨーロッパ
パッパッパリーの見学に にんにん肉屋の大どろぼう
ああ 教会のカネばなる」
配給制度のてまり歌。
「一匁(もんめ)の一助さん いも屋のおばさん いも配給
二匁の二助さん 肉屋のおばさん 肉配給
三匁の三助さん さば屋のおばさん さば配給・・・」
それらの子供たちが唄う歌にまじり、いまでは、芝居、映画、テレビドラマのなかでしか聞くことのない大阪の子守唄を、停電のなかで泣きじゃくる赤子に老女の歌う声が聞こえてきた。ねさせ歌といわれる、難波の「天満の市」の哀調を帯びた節回しが忘れられない。
「ねんねころいち 天満の市は 大根(だいこ)揃えて 舟に積む
舟に積んだら どこまで行(い)きゃる
木津や難波(なんば)の 橋の下
橋の下には おかめがいよる おかめ捕りたい かめこ怖い」
また、歌いながら幼児の掌(てのひら)を人さし指でつつき、最後に脇の下、または喉を擽(くすぐ)る、いわゆる、あそばせ歌として大阪市内各地に伝承された「紺屋のネズミ」の歌がなつかしい。
「紺屋(こうや)のネズミ 藍食(あいく)て糊食(のりく)て
すまんだへ コチョコチョコチョー」。
関東大震災はおろか、日清・日露の役、西南の役の話を身近にする老人が、まだ大勢いた戦後すぐのことである。そして、その戦争から65年経ったいま、その戦争を知らない人の方が多く、いつしか当時の老人の感慨を偲べる歳になってしまった。
―今日のわが愛誦短歌
・水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中
近藤芳美
―今日のわが駄句
・公園に男泣きをり鳥交る

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