承前。阿遅速雄神社の前の道がどう見ても旧街道の風情があったので、しばらく行ってみると、中高野街道の碑が建っていた。以前東高野街道を歩いた娘によると、東高野街道は八幡から、中高野街道は杭全神社から、西高野街道は四天王寺から発し、中高野と西高野は狭山で東高野とは河内長野で全てが一つになり、高野街道になったのでこの辺りが中高野街道というのは初めて聞いた、と不思議がっていた。
阿遅速雄神社は昨日にも書いた通り三種の神器の剣の伝承がある。もともとは八剣神社と呼ばれており、その参道であったことからここが剣街道と呼ばれていたらしい。八剣という神社はそもそも岐阜や名古屋に多く、大国主命や、日本武尊を祀っていて、すなわち草薙の剣に関係していることを表している。つるぎが転じて鶴見になったということもまた頷ける話である。
その剣街道沿いに鶴見神社があったのでその説を確かめてみようと足を伸ばしてみる。ところが由来書に「鎌倉時代に源頼朝が富士の裾野で放った鶴がこの地に飛来して舞う姿が見られたことに由来する」とある。その時代時代によって為政者の話が社伝として伝わっていて面白い事だと思った次第である。
鶴見区から鶴橋という町過ぎる鶴田と呼びし男を偲ぶ

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