灘の銘酒「白鷹」から、毎年今ごろ、搾りたての新酒が届く。伊勢神宮御用達のこの蔵元の杜氏の精魂が籠った寒仕込みの酒である。
蔵元に問い合わせると、ここの酒は伊勢神宮では神前に奉献する神酒(神宮では御料酒と呼ぶ)として使われているということだ。御料酒は毎日朝晩、100社以上もあるお社(やしろ)に供えられるという。土器(かわらけ)に注がれた酒が次に注がれるときにはなくなっていて、神様が呑まれたと信じられ千年欠かすことのない儀式が繰り返されているそうだ。明治時代には、神社で造る濁り酒が用いられていたが、大正時代から「白鷹」の清酒に代ったとのことだ。
日本酒の歴史では、古代、米の生産がわが国に持たれたころから、当然、原始的な方法ながら酒の製造があった筈だ。そして、出来た酒は先ず神前に供えられていたのであろう。製法技術の発達の未だ原始的なころで、その酒は濁酒であり、酸味がかったものであったろう。
時代が下って奈良時代に、万葉集にある有名な、山上憶良の『貧窮問答歌』に、
「風雑(まじ)り 雨ふるよ(夜)の 雨雑(まじ)り 雪ふるよ(夜)は すべ(術)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお)を 取りつづしろい 糟湯酒(かすゆざけ) うちすす(啜)ろひて しはぶ(咳)かひ 鼻びしびしに・・・・」
と詠まれ、そのなかにある「糟湯酒」とは、酒粕を湯で溶いてつくった酒、といわれている。恐らく、大伴旅人作の酒の歌もこの類に近いのだろうが、貧富の差でどの程度の品質の差があったのか解っていない。いずれにしても、日が経てば、酢になる濁酒だったろう。
さて、濁酒が、清酒に何時のころからなったのだろうか。戦国の武将、山中鹿介(しかのすけ)幸盛は、尼子氏滅亡後、毛利氏に滅ぼされる。その長男幸元は、伊丹の地で、鴻池屋を名乗り酒造業を開業し江戸に酒を送り財をなす。鴻池家の始まりである。 そのころ、手代のなかに、叱られた者がいて、腹癒せにかまどの灰を樽のなかに放り込んだところ、濁り酒が豊潤な清酒になった、と言われている。
慶長4年(1599年)のことで、以後、清酒の生産が始まったとされている。明くる慶長5年(1600年)関ヶ原の役に勝った徳川家康は天下を平定。幕藩体制を確立する。 『鸚鵡籠中記』という江戸時代の書物がある。そのなかに面白い話がある。尾張徳川家第四代吉通は酒好きの殿様として知られる。盃を五十三箇そろえ、ひとつひとつに東海道五十三次の宿場の様子を蒔き絵で描かせ、それを並べて置き、人に飲ませ、一度に飲み進んでしまうのを愉しんだという。徳川泰平の世の目出度いお話である。勿論、上流社会では、ここで飲まれた酒は、清酒であったと思うが、『貧窮問答歌』に歌われる最下層の人たちは、「どぶろく」と称された濁り酒に癒しを求めていたのだろう。
ただ、高山彦九郎が三条大橋より御所の灯りを望見して、思わず平伏した、幕末のころの天皇は、濁り酒しか知らず、伊丹に領地を持つ、近衛家が、そこに産する清酒を献納したところ、このような美酒があったのかと、感銘された話がある。菊は栄え、葵は枯れる、幕末のことではある。
日本酒は古来より日本人の生活に深くかかわり合い、それぞれの人生の喜怒哀楽を共にしてきたのである。
―今日のわが愛誦歌
・触覚のごとく怖れにみちている
今日の心と書きしるすのみ
河野愛子
―今日のわが駄句
・狡猾を絶えねば絶えね春めくと

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