あれから80年経つという。私の現在の年齢から差し引けば、当時は4才の幼児であった。太平洋戦争の発端になった旧日本軍による米国への奇襲攻撃があったのは、1941年12月8日(現地時間7日)で、ハワイ・オアフ島の真珠湾にある米軍基地や艦隊をわが軍が戦闘機などで奇襲攻撃し、米側は戦艦アリゾナなどが沈没、約2400人が死亡した。 ... 米国は日本に宣戦布告し、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を掛け声に反撃した。当時、評論家の亀井勝一郎は
「この勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であったと思う。即ちかってペルリによって武力的に開国をせまられたわが国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐だったのである。維新以来わが祖先の抱いた無念の思いを、一挙に晴らすべきときが来たのであった。」と述べている。臨時ニュースは、早朝7時からくり返し放送され、すべては畢(おわ)ったとしか思えない苛酷な歴史の冷厳な現実があった。安田武というジャーナリストの
『昭和 東京 私史』という手記が目についた。「夜、灯火管制で真っ暗な池袋の街へ出てみた。[おそめ]という、この辺では有名なトンカツ屋があった。むろん、軒灯は消えている。ためしに扉に手をかけると、カラカラと開いた。防空用の暗幕を押し分けて覗けば、いつものように明るい店内に、女将が独りぽつんと坐っている。「休業かい」「いいえ、やってますよ。お客様の方が見えないんですよ」「じゃ、一本つけて貰おうか」あいよ、と女将は気軽にたって、四斗樽から片口に受けた酒を徳利に移しながら、「戦争なんかはじまっちまって・・・あなたが、今夜の口あけだよ」と、屈託ない口ぶりで笑った。まだ日中戦争で勝ち続けていた国がたとえ奇襲攻撃とはいえ、アメリカ相手に勝利を収めたのだから大騒ぎの状況だったのだ。そんな風景が見え隠れる当時を偲んでいる。12月8日である。
何時の間に足腰弱る齢なり12月8日語る人なく


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