とある商店街の定時総会のあとの懇親会のそのあとは、二、三次会のお誘いが待っている。日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝と続く、奈良東大寺二月堂のお水取りの厳しい行法に比べるには、いささか不謹慎ではあるが、その行事の進行を時間のなかに進めていくパフォーマンスは、参加者それぞれには、平穏な日常生活を破壊してしまって、身をささげ奉らなければならない厳しき行なのかも知れない。太宰治に『八十八夜』という短編小説がある。
諦めよ、わが心、獣(けもの)の眠りを眠れかし。(C・B)
笠井一(はじめ)さんは、作家である。ひどく貧乏である。このごろ、ずいぶん努力して通俗小説を書いている。けれども、ちっとも、ゆたかにならない。くるしい。もがきあがいて、そのうちに、呆(ぼ)けてしまった。いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ、わかっている。一寸(いっすん)さきは闇だということだけが、わかっている。あとは、もう、何もわからない。ふっと気がついたら、そのような五里霧中の、山なのか、野原なのか、街頭なのか、それさえ何もわからない、ただ身のまわりに不愉快な殺気だけがひしひしと感じられ、とにかく、これは進まなければならぬ。一寸さきだけは、わかっている。油断なく、そろっと進む、けれども何もわからない。負けずに、つっぱって、また一寸そろっと進む。何もわからない。恐怖を追い払い追い払い、無理に、荒(すさ)んだ身振りで、また一寸、ここは、いったいどこだろう、なんの物音もない。そのような、無限に静寂な、真暗闇に、笠井さんは、いた。
目が覚めると、新しい朝が始まっていた。夏目漱石の『草枕』の一節に
眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい・・・・・濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落して味ってみる・・・。ゆっくりと過ぎ去った宴のあとの虚白の時間を追憶しながら新茶の一服の苦みを噛みしめている。大阪弁に「セブル」ということばがある。責めるの転訛したものとされている。ねだる。強請するということである。いつの事やら、誰に聞いたか、定かに思い出せないが、夏の熱いお茶が最高に好い、頭が疲れた時は濃い煎茶とのこと。確か、チャキチャキの江戸っ子弁を爽やかに聴かせてくれた人であった。それを思い出して、家人にせぶって呑む熱い茶は、虚白の罪障を消滅させてくれた。
―今日のわが愛誦句
・
無事にまさるよろこびはなき新茶かな 吉田ひで女
―今日のわが駄作詠草
・私語(ささめき)に誘われ東北南
西へ歩きぬ寂しきままに

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