北摂の池田に在る「逸翁美術館」で「与謝野晶子と小林一三」と題する特別展が開催されているので出掛ける。池田といえば、小林一三(1873−1957)がその周辺の土地を阪急電車の発展に伴って開発していった拠点になった地であつた。鉄道、土地開発、宝塚歌劇、映画、デパートなど独創的な発想で数々の起業をなした天才商人である。
世の中で、百歩先の見える者は変人扱いをされる。五十歩先の見える者の多くは犠牲者になる。生き馬の目を抜くといわれる修羅場を潜り抜けた者が吐く至言である。
何故、与謝野晶子と小林一三に接点があるのか、新聞広告でみた「与謝野晶子と小林一三」展の文字が目についたときから考えていたのだが、漸くその機会にめぐりあえた。大正6年(1917)与謝野鉄幹・晶子夫妻が関西から九州にかけての「歌行脚」と銘打つ旅に出たのだが、これは表向きのことで、屏風・懐紙・短冊などに揮毫することによる糧秣稼ぎをしたことらしい。鉄幹のヨーロッパ遊学、晶子も半年後、シベリア経由でフランスに渡り、子供を置いての外遊だけに、留守宅の生活費用の不安もあったのだろう。また、鉄幹の衆議員議員立候補、落選などその経済状態はかなりの苦しさがあったことが、小林一三との接点があったことから想像できる。小林一三所有の上田秋成の「源氏物語五十四首短冊貼交屏風」を閲覧して、感激し晶子自らが、小林一三へのお礼のしるしとした「源氏物語礼讃歌」の金屏風が展示してあるのだが、実は、この手法を利用した晶子の短冊が多く出回っていたことが判明されている。著名な文人ではあるが、12人の子福に恵まれたものの、その経済生活は虚栄に満ちていたものがあったのだが、小林一三は黙って与謝野家に援助の手を差し伸べていたことが、展示されている晶子の書簡などで理解される。
@ 歌百首屏風 ―晶子と一三、交流の先駆け―
A 大正六年の晶子 ―六甲山苦楽園での「歌行脚」と宝塚
B 晶子「源氏物語礼讃歌」の展開
C 晶子の詠歌活動
D 晶子の新出書簡
E 書簡で見る寛・晶子夫妻と一三の交流
―併 一三と小林政治(天眠)の交流―
与謝野晶子といえば、鎌倉の大仏を詠んだ有名な歌がある。
かまくらや御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かなを高村光太郎の描いた絵の画賛とした画幅がある。所持者の小林一三の眼力なのか、随分高額の買い物であったことが想像できる。
下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。そこに小林一三の面目躍如たるところを窺うことが出来る。芸術の理解者として、芸術家を援助するのに財を惜しまなかった小林一三のこころが伝わってくる展示品の数々であった。
与謝野鉄幹は昭和10年3月、62歳で亡くなり、晶子は昭和17年5月64歳でこの世を去っている。小林一三は晶子夫人を悼むとして
数万の星の如くに輝ける歌をのこして君逝き玉ふの弔歌を認めている。
―今日のわが愛誦句
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薫風の素足かがやく女かな 日野草城
―今日のわが駄作詠草
・ヴィヨンの妻なり金持ちの庇護に甘えて
三十一文字は美しきかな

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