半月ほど前、「山城郷土資料館」を訪れたとき、説明を求めた館員と気が合い、谷川健一『青銅の神の足跡』の出合いが私の古代史感を変えたということまで話してくれた。私の蔵書のなかにもその本があるはずだと、伝えて別れた。帰宅してその『青銅の神の足跡』を読み返しているところである。書物の帯に書かれたことばによってその著者が言わんとする内容を類推することができる。
「ヤマト朝廷が成立する以前の社会の信仰とは何か。それをつかむことによって古代天皇制の成立以前の社会との接続、または変質を明らかにしたい。」「日本文化の謎の逆転!<目>が象徴する金属神から<耳>の農耕神へ!」「地名・伝承・氏族・神社の組み合わせから古代鍛冶氏族の役割と足どりを詳細に追跡!徹底した実証と鋭い感性で銅鐸の謎に文化史の視線を当て、記紀成立以前の社会を大胆に復原して、日本文化の基底をなす金属神から農耕神への逆転を明示する!とある。
いま、日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥陵に来ている。いわゆる、「羽曳野(はびきの)」と呼ばれる大阪市の東南部に位置している地域である。景行天皇の皇子である日本武尊は、九州から東国へ、休む暇なく朝敵征伐に奔走したのだが、伊勢の能褒野(のぼの)で斃れその地に葬られたが白鳥になって陵を飛び立ち、大和の琴弾原(ことひきはら)へ。また陵が造られたが、再びそこを飛び去って河内の古市邑に造られた羽曳野の陵に納まったという伝承がある。このあたり一帯は、古市古墳群と言われ、応神、仁徳、履中、反正、允恭(いんぎょう)、雄略、清寧(せいねい)、仁賢(にんけん)、安閑(あんかん)など天皇陵が密集しているところである。この古市古墳群からは、鉄、銅製の甲冑、刀剣、馬具などがおびただしく出土しているところから強力な軍事集団を率いていたことが推察されるのだが、その古墳群のなかに日本武尊の御陵が造られていることの疑問を考えながらその古墳の姿を眺めている。
羽曳野市の地名の由来は日本武尊の白鳥伝説を踏まえ、「白鳥は舞い上がり、埴生の丘を羽を曳くがごとく飛び立った」とある古市の白鳥神社の縁起にちなんで命名されたそうだ。そののちこの地の近くに東大寺を造った行基を輩出した「知識」と呼ばれる集団が形成され中央政権に大きく影響を与えることになる。白鳥は死なず、ということなのだろうか。古代史のなぞにはまり込むのも暑気しのぎの一つと考えている。
―今日のわが愛誦句
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散れば咲き散れば咲きして百日紅 千代女
―今日のわが駄作詠草
・はるかなる悲劇のあとを訪れぬ
番いのかいつぶり堀に浮かべて

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