疲れた心と体を労りながら、朝涼しい内の散策に出る。蝉の大合唱のなかに垣根から山査子(さんざし)の枝が何かを思い起こすように垂れさがっている。昨日の叔母の告別式で流れていた「この道」をふと想い起こす。故人愛誦の曲とのことで、式場で始終流され鎮魂の曲になっていた。
あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子(さんざし)の枝も垂(た)れてる
大正13年(1924)生まれの叔母と明治42年(1909)生まれの母、姉妹の15歳の年齢差は、大正の御代と同じ年差を示しているのだが、当時の人々には明治、大正の年号の重さがずしりと圧し掛かっていたに違いない。
降る雪や明治は遠くなりにけりの中村草田男の嘆息に表現されていることで実感出来る。
娘 なにゆえに、縫いたもうや 赤きサラファンを、
いそぎて用なき晴れ衣
母 いとしのわが子しばしきけよ、いのちの春は長からず、
若やぐ頬も色あせて たのしき日々はとどまらじ
たのしき日々はとどまらじ 老いたるわが衣(きぬ)つくり
夢みし頃を くり返しつ、縫う手も楽し衣つくり 衣つくり
ロシア民謡「赤きサラファン」より。
告別式で、焼香に対する三人の子女の立礼を受けながら、転(うたた)、叔母の面影を偲んでいる。

赤きサラファン
―今日のわが愛誦句
・
六百年垂れて自在の涼しさよ 大野林火
―今日のわが駄作詠草
・渺々と天の高みに雲ひとつ
流れ行きけり大暑厳しく

7月12日 大阪にかかった虹

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