天平の美女を思わせる十一面観音菩薩立像の優艶な気品に接して、観音寺をあとにする。ふと目にとまった「京都・南山城十一面観音巡礼」の案内パンフレットを車中で目を通している。「南山城は京都府の南端に位置し、古来より隣接する奈良の影響を色濃く受けた地である。かってこの地を訪れた白洲正子さんは、その著書『十一面観音巡礼』の中で、<伊賀の山中に発する木津川は、南山城の渓谷を縫いつつ西へ流れる。笠置、加茂を経て平野に出ると、景色は一変し、ゆるやかな大河となって、北上する。その川筋には、点々と、十一面観音が祀られている。それは時に天平時代の名作であったり、藤原初期の秘仏であったり、路傍の石仏だったりする。>と書いている。国の重要文化財である禅定寺、笠置寺、海住山寺、現光寺、海住山寺奥の院、岩船寺、寿宝寺の十一面観音と観音寺の国宝仏を巡礼する企画なのだが、各寺院の十一面観音の写真が付されていてそれぞれの尊願が想像できる。
われもまた落葉のうえに寝ころびて羅漢の群に入りぬべきかなと吉井勇が詠んだ深草の「石峰寺」の五百羅漢が見たくなったので行くことにする。天平、貞観の完璧な仏像の美に心酔したあとに、ふと思いついた戯れごとかも知れないが、江戸中期の画家、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう1716−1800)が下絵を描いて、石工に彫らせた釈迦誕生より涅槃にいたるものを中心に諸菩薩、羅漢を一山に安置したものであるということで興味が湧いてくる。
「羅漢」とは、釈迦の教えを伝え、世人から供養される者をいうのであるらしいのだが、釈迦の入滅後にその教えを広めた賢者たちを讃えるという意味で、中国の宋・元の時代に五百羅漢の制作がなされ、わが国でも室町時代以降に作成され出したのは、恐らくは中国の影響があったのだろう。それは、虚飾のない表情のなかに、ゆたかな人間美を秘めた素朴な表情に人のこころを惹きつける石仏ならではの味わいが伝わってくる。国史学者中村直勝は
天平や貞観の仏達に、整然たる美を認めるならば、この羅漢像に格を外れた強さがあることを見落としてはならぬ天平仏貞観仏のような清らかな人間の顔はない。しかし、この羅漢の面相は、われわれの父の顔であり、伯父の面持ちである。村の和尚は、このような肩を持っておった、隣村の村長さんの鼻がここにある。向こうの里の青年は、このような姿で、気焔を挙げて天下国家を論じておったと述べている。(続・京の魅力)。若冲の人間を眺める皮肉な眼が草葉の陰から覗いている気配が感じられる。何をささやき、うなずき、ほほえみ、憂いているのかと、これらの五百羅漢石仏群の表情にこころが癒やされる。吉井勇の気分が微笑ましく伝わってくる。
―今日のわが愛誦句
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こほろぎや眼を見はれども闇は闇 鈴木真砂女
―今日のわが駄作詠草
・若冲に子なし孫なし絵ごころを
石にとどめて色即是空

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