地蔵盆がすめば、秋めいてくる気配を感じるのは、例年のことなのである。でも、百日紅(さるすべり)の花だけはいつまで咲ているのだと、どやしてやりたいほど、つるつるの木に紅い花を付けている。昨日、終わった近所の地蔵尊にお供えした、お下がりの豆を齧りながら、往く夏の街の風景をぼんやり眺めているところである。三島由紀夫の『真夏の死』という小品の一節の描写に夏の結末を思い出す。
沖には今日も夥しい夏雲がある。雲が雲の上に累積している。これほど重い光りに満ちた荘厳な質量が、空中に浮かんでいるのが異様に思われる。その上部の青い空には、箒(ほうき)で掃いたあとのような軽やかな雲が闊達に延び、水平線上にわだかまっているこの鬱積した雲を瞰下ろしている。下部の積雲は何ものかに耐えている。光りと影の過剰を形態で覆い、いわば暗い不定形な情慾を明るい音楽の建築的な意志でもって引締めているように思われる。・・・。波がもち上がる。崩れる。その轟きは、夏の日光の苛烈な静寂と同じものである。それはほとんど音ではない。耳をつんざく沈黙とでも言うべきである。そして四人の足許には、波の抒情的な変身、波とは別のもの、波の軽やかな自嘲ともいうべき、名残の漣が寄せては退いている。三島文学の片鱗を覗かせている、夏の雲と波との対比の見事な描写を通して、晩夏の哀愁が漂っているような煌めきを感じせてくれる。
夏の雲と波、という言葉にふと昨日、知人が生のシークヮーサーの実を探していた事を思い出し、大正区の平尾商店街に行けば沖縄のものなら大凡、手に入ることだろうと思い家人に買いに行かせた。持ち帰ったシークヮーサーは思っていたよりも小さくて安価だったのには意外な感じであった。昔、息子が西表島によく行っていたのだが、その折にお土産に買って帰ってきた「パイン糖」や「ちんすこう」といった懐かしいものも一緒に買ってきてくれた。思い出というものは、突然、蘇えってくるものだと、嬉しくなる。
夏の陽ざしのような沖縄の味は苛烈な静寂と言うよりも、むしろ心地よいハーモニーを私の中にもたらしてくれた。三島由紀夫がいう、耳をつんざく沈黙とは、斯かるものなのかをと、考えながらひとときの感傷に浸っているところである。
―今日のわが愛誦句
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百日紅心まづしき月日かな 秦豊吉
―今日のわが駄作詠草
・遠泳の少年還りきて夏終わる
雲を眺めて泳ぎしという

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