今日で8月が終わるのだと、ただ惰性的に毎日めくっている日めくりの日にちが、8月31日を記(しる)しているだけで、夏の終焉を感じている。
しわとしみよしや鏡はこぼつともこぼてぬおのれいかにとやすると、朝の洗面をしながら、鏡に映るわが顔をつくづくと眺めながら、詩人堀口大學の老醜の人生述懐の歌を思い出している。
そういえば、家のなかで鳴き出した、育てている鈴虫にまじって、蟋蟀(こおろぎ)の鳴く声も聞こえだした。小泉八雲の『虫の演奏家』ではないが、秋の訪れに伴う虫の混成合唱を音楽会の始まりととらえた西洋人の感覚に感心させられる。
こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を 寝(ぬ)る験(しるし)なし 枕と我れは 萬葉集巻10−2264作者不詳の歌と比べるまでもなく西洋人と東洋人との感性の違いがよく分かる。
つい先日まで周辺で喧しく鳴いていた蝉に代わり虫の鳴き声に目が覚める。早朝の散策の道中に鳴く種々の虫声が夏から秋への季節の移り変わりを伝えているのだなと、憐れを誘う。昨夜、酔客にさんざめいていた盛り場の隅から、蟋蟀(こおろぎ)の声があちらこちらから伝わってくる。こんな所に棲み場を定めた虫たちの鳴き声を聞くと、夏の終わりのやるせなさを感じる。そんなときランボーのあの 『地獄の季節』のなかにある「別れ」の詩の投げ遣りな気分に誘惑されている。
もう秋か。
---それにしても、何故に、永遠の太陽を惜しむのか、
俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、---
季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。
今年の8月尽の日の感傷である。それは、菅内閣から野田内閣へのバトンタッチが、日本の将来にどう方向づけられていくのかと、虫の鳴き声を聞きながら考えているところでもある。
―今日のわが愛誦句
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たのしみに虫を殺す野のかがやき 萩原羅月
―今日のわが駄作詠草
・何時までも夏の思い出棄て難く
虫鳴く秋の季節となりぬ

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