結婚して10年近くなる末の娘から子を授かったようだとの嬉しい知らせがあった。無事安産を願い、妊婦が腹部に巻く白布で、妊娠5ヶ月目の戌(いぬ)の日から着用する古来からの習慣にある「岩田帯(いわたおび)結肌帯・斎肌帯(ゆはだおび)」を宝塚市の安産祈願の寺として有名な「中山寺」に戴きに行く。明治天皇の生母中山一位局(中山慶子1836−1907)が孝明天皇の子を授かった折、当寺の鐘の緒という腹帯を受け、無事、明治天皇を生みその因縁で以後明治天皇安産所の寺として安産祈願として殷賑を極めている名刹である。
安産祈願の寺としては、奈良市の「帯解寺」を思い起こす。美智子皇后、雅子皇太子妃をはじめ、三笠宮、高円宮、秋篠宮などの皇族が当寺において安産祈願を行っている古刹がある。日継ぎの皇子に恵まれなかった文徳天皇の染殿皇后(藤原明子)が当寺にて祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、天安2年(858年)、文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、勅命により「帯解寺」となったという。以来、安産・子授け祈願の寺として朝野を問わず篤い信仰を集めていて、皇室の勅願寺とされている。また、この寺の霊験新たかなることを知り、江戸時代には、徳川三代将軍家光に世継ぎがなく、側室の御楽の方が当寺にて祈願したところ、竹千代丸(4代将軍・家綱)を安産した。また、徳川二代将軍秀忠の正室お江与の方(お江)の安産祈願したことも有名であると伝えられている。
「高野山にはの、女(おなご)は入れえへんがのう、この慈尊院までは上れるんやしてよし。そやよってに、ここは女人高野(にょにんこうや)と云うんやして、花はしってたわの」「はい」「祈親上人(きしんしょうにん)さんちゅう偉いお方の夢枕(ゆめまくら)にお大師さんが顕(あら)われなして、我に十度(とたび)礼せんよりは我が母に九度(くたび)拝せよとおっしゃったんは知ってたのう」「はっきりとは知りませなんだよし」「お大師さんがほいだけお母さんを敬われたと知れば、女ちゅうたかて阿呆(あほ)やってええ筈(はず)ないと思わんならんわの」「そうでございますし」豊乃は静かに合掌して眼を閉じた。花も倣(なら)って手を合わせたが、廟の前の柱にぶら下っている数々の乳房形(ちちがた)に気がつくと、しばらく瞑目(めいもく)することを忘れていた。それは羽二重(はぶたえ)で丸く綿をくるみ、中央を乳首のように絞りあげたもので、大師の母公と弥勒菩薩(みろくぼさつ)を祀る霊廟に捧げて安産、授乳、育児を願う乳房の民間信仰であった。実物大の大きさのものから経一寸ほどの雛型(ひながた)まで、柱の上の方に沢山吊り下げられてある。まっ白な新しいものが二つ三つある他(ほか)は、どれも風雨にうたれて古び黝(くろ)ずんでいた。有吉佐和子の名作『紀ノ川』の冒頭にある描写である。母の夭折により厳しく孫娘を育てあげた祖母が、婚礼を前に慈尊院に参詣した折の一節であるが、子を宿し初めての里帰りをしたとき、再びこの寺に祖母と一緒に安産の祈願に訪れる場面がこのあとに続くのだが、才媛といわれた有吉佐和子の名文に涙する描写がある。子を産むことの期待と不安を思い、妻ともども「御鐘緒」と墨書された腹帯を受け取る。爽やかな天を仰ぎ中山寺をあとにする。
―今日のわが愛誦句
・
上行くと下くる雲や秋の天 凡兆
―今日のわが駄作詠草
・あの雲ははるか昔の思い出よと
人差し指でその雲を指す

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