昨日の大寒の日は終日雨にたたられた冷たい一日であった。朝明けてその雨もすっかりあがり、洗顔の水にも温みが感じられた。冬来たりなば春遠からじの労りのことばが浮かんできた。ああ、そういえば新年会が今夕あり、一言しゃべれとの依頼があることを思い出した。規制緩和という鉄鎚が下ろされて業績、年々落ち込んでいる斜陽の業界である。頑張ろう!。頑張ろう!の相互激励の声もだんだん小さくなってきて廃業の連鎖が続く昨今である。
十干十二支という思想がある。今年は壬辰(みずのえたつ」となっている。壬(みずのえ)は、任で陽気に下にひろまっていく意味。辰(たつ)は、万物が伸びること、とある。なかなか結構なことではないかと思うのだが、こんな呑気なことをしゃべっても誰も聞く耳を持ってくれないだろう。一体、60年に一度めぐって来るこの「壬辰」の年に日本歴史上なにが起こったのかを調べてみたら、○舒明4年(632)―唐の使者が高麗から帰国する。○持統6年(692)―中納言三輪高市麻呂が天皇の伊勢行幸を諫め、これが受け入れられないために辞職する。藤原宮の地鎮祭。〇天平勝宝4年(752)―大仏開眼供養が行われる。〇承平2年(932)―備前国に海賊が横行する。〇永承7年(1052)―筑前香椎宮が焼ける。祇園社を建てて御霊会が行われる。〇承安2年(1172)―平清盛の娘徳子(のちの建礼門院)が中宮となる。〇貞永元年(1232)幕府が関東御成敗式目を決める。〇文和元年(1352)―足利尊氏が鎌倉に入って直義軍を降伏させる。〇安永元年(1772)―田沼意次が老中になる。会津藩が藩政の改革に乗り出す。幕府は密貿易の取締りを強化する。幕府は南鐐二朱銀を鋳造する。〇天保3年(1832)―越前藩が農民の小商を禁じる。長州藩の負債が銀8万貫に及んだ。琉球にイギリス船が漂着。〇明治25年(1892)―選挙干渉が問題化し内務大臣品川弥二郎引責、辞職。大井憲太郎東洋自由党を結成。〇昭和27年(1952)―改進党結成。第一次日韓会談開始。極東委員会対日理事会、GHQ廃止。対日平和条約、日米安全保障条約発効。皇居前で警察隊とデモ隊が衝突して血のメーデー事件が起こる。自由党に内紛が起こり石橋湛山、河野一郎が除名される。10月1日第2回総選挙(自由党240、改進党85、右派社会党57、左派社会党54、共産党0)。11月10日、皇太子明仁親王(現天皇)、立太子礼。などが記録にとどまっている。波乱万丈、権謀術策がうずまいた治乱興亡の歴史が読みとれる。
壬は、女編をつけると「妊」すなわち、孕(はら)むとなり、人編をつければ「任」で、まかせるとなる。いずれも同じ意味を持っていることになる。任されて遣り遂げなければならないとか、体内に胎児を孕んで大きくなるまで育てあげなければならないということである。この年は、そのような年回りであるということである。
60年前の壬辰の年。講和条約が発効し、独立が回復したものの、アメリカの戦略物資買付停止で、朝鮮動乱ブームで息を吹き返していた日本経済が後退しだし、市況は低落し、貿易商社や繊維問屋の倒産が続出し日本経済の底の浅さが露見する。電源開発促進法が成立。電源開発会社が設立された。重化学工業への新たな道が開かれたのだが60年後、原発事故の発生で大きくその道の見直しを考えなければならない局面が現れて来た。
辰に雨冠をつければ「震」、手編をつければ「振」と同義語である。さあ、世の中が激しく揺れ動こうとしているのだ。良き前進を祈るしかない。
はねば はねよ をどらば をどれ はるこまの のりのみちをば しる人ぞしる
放浪を宗教にまで高めた時宗の祖、一遍(1239−1289)の達観の境地を思う。
―今日のわが愛誦句
・
どうしやうもないわたしが歩いてゐる 種田山頭火
―今日のわが駄作詠草
・かの夕べ遊びしことを思い出す
わが在ることの不可思議なこと
狩野探幽・妙心寺天井画

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