犬も歩けば棒にあたる、ではないが、珍しく寺院の木造建設の現場の前を通った。現在では「大工(だいく)」といえば、木造の建築を建てるのに絶対不可欠な技術者を指すが、江戸の発音で「デエク」と呼ばれた、江戸時代も後期からとなっているらしい。 かつては一般の木造建築の職人を「右官」と呼んでいたが、江戸時代頃から一般の職人も大工と呼び、統率者に対しては、棟梁と呼ぶようになったらしい。
もっとも、飛鳥時代に今でも使われている「さしがね」を考案したとも言われる聖徳太子が組織し、都造りのため天皇のそばで建築の「木」に関わる職を「右官」、「土」に関わる職を「左官」と呼んでいたということが根源であるとされていて、代々職人の間で受け継がれてきた呼び方であったらしい。 現在の建設業で「左官」以外の職種は設計も含め、「大工」より派生したものが非常に多いようだ。 古くは、「工(たくみ)」ということばだけで「技術者」という意味をもっていたようだが、最近よく使われる「意匠」というのは、「匠(大工)」が「意図する(考えた)」という意味でデザイン性を表す昔ながらの言葉であるのだろう。
金剛組は、敏達天皇7年(578)、四天王寺(現在の大阪府)建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工のうちの1人である金剛重光により創業。江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工となっていた。わが国で最も古い工務店と言われているのだが、先年、倒産してしまい今は名のみ残す存在となってしまった。立春を前に寒い日々が続いている。四天王寺境内を散策しながら、この寺に関わりの深い「金剛組」のことを考え、もうすぐ東大寺二月堂の「お水取り」であると思った。
大阪四天王寺、金剛組
奈良東大寺二月堂で行われるお水取り行法のなかに、東大寺建立に功績があった人物が記されている「過去帳」が読みあげていかれる場面がある。過去帳披講の折、睡魔に襲われた練行衆(れんぎょうしゅう)の眼前に青い衣を着た女人が現れ「など我を過去帳にはよみおとしたるぞ」という。咄嗟に「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と読みあげると、女人のすがたは消えたという伝説がある。
大伽藍本願聖武皇帝。聖母皇太后宮。光明皇后。行基菩薩。本願孝謙天皇。不比等右大臣。諸兄左大臣。根本良弁僧正。当院本願実忠和尚。大仏開眼導師天竺菩薩僧正。(4人略)。大仏師国公麻呂。大鋳師真国。(1人略)。鋳師柿本男玉。大工猪名部百世。小工益田縄手。材木知識五万一千五百九十人。役夫知識一百六十六万五千七十一人。金知識三十七万二千七十五人。役夫五十一万四千九百二人。と、大仏建立の国家事業に携わったことが何人に至るまで細かく記されており、1300年の星霜を越えて今も読み続けられている。
子供の頃、「法隆寺を建てたんは誰や」と聞かれ、「もちろん聖徳太子や」と答えると、「ちゃうわ、大工が建てたんや」と言い返されたのを思い出した。どんなに立派な寺院でもそこには多くの名もなき大工が携わり、そして日本の文化を脈々と受け継いできたのだと思うと、たまたま出くわしたその現場もまた文化を創り出す場なのだと改めて感慨を深くした。
―今日のわが愛誦句
鼻紙に物かく春の詠(なが)めかな 大魯
―今日のわが駄作詠草
・春を待つ声はさみどり色にして
鎚うつひびき懐かしきかな
東大寺修二会、過去帳

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