きょうからプロ野球セ・リーグの公式戦が始まる。一週間前に始まったパ・リーグは開戦カードの対戦後、一服があったが、今日から両リーグいっせいに熱戦がはじまり、かまびすしくなる。広島×中日、ヤクルト×巨人、横浜×阪神が開幕カードで、三戦ともナイターになっている。往時を思うと時代の変遷を痛感する。
名アナウンサーの志村正順の随筆『プロ野球勿忘草』のなかに戦後間もなくのころの話である。
「試合開始は午後二時の予定。すでに選手は守備位置につき、トップバッターはボックスの傍でスイングをしているが、いっこうに島球審の手があがらない。二時は、一分をすぎ、二分もすぎた。観覧席はザワメキ立ち、島さんは盛んに私たちのいる席を振り返って見てはためらっている。
『どうしたのだろう』選手達も、合点の行かぬ表情である。その時靴音慌しく階段を駆け降りてきた人物がある。当時のセ・リーグ会長の鈴木竜二である。小脇にはシッカとボールの入った四角な箱を抱えている。
『ヤット間に合ったか。今の今まで、玉沢のボール工場ででき上るのを待っていて、やっと八個縫い上ったのでもって来た。すぐ島君に渡してくれたまえ』と言うなり、グッタリ椅子に座り込んで汗をふく事しきり。見れば一ダース入りの球箱にはゴロゴロと八個のニューボールが入っている。ちょっと、さわって見たら、いかにもできたての感じで、生温かかったような気がした。これでやっと定刻三分すぎ、島球審の右手があがり、プレーボール。
昭和23、4年頃では、ボールの生産量が、プロ球団の消費量に追いつけなかった。機械化は遅れ、手縫いで、原料の牛のナメシ皮も容易に手に入らず、会長自ら座り込み一試合の最低使用限度を確保したという」。
引用は長くなったが、いまでは考えられない話である。
今朝、東京の息子から「KOSHIEN NAMING BRICK MEMBERS」の証明書が届いた。見ると甲子園球場周辺に刻印レンガが配置されているのだという。シリアルナンバーとともに妻との結婚の年であるSINNCE1966が刻まれて敷設されるという。一塁側の外野スタンドの23号門近くにあり、高校球児が入場式の折に出入りするアルプス席との間の位置である。嬉しい計らいである。そして甲子園の土を入れた記念品も付与されていた。「甲子園」。野球を愛する少年たちの聖地である。その響は単にプロ野球球団の一つの球場ではなく、多くの若者の汗と涙も染み込ませてたドラマの舞台なのである。
二日ぶりに雨も上がったが、まだ、風は冷たく肌を刺す。ときたまラジオから流れてくる、センバツ高校野球の実況放送の声が伝わってくる。テレビがなかったころの、NHKラジオ放送の志村、河原アナウンサーの名調子が懐かしい。
―今日のわが愛誦短歌
・こんなにも湯呑茶碗はあたたかく
しどろもどろに吾はおるなり 山崎方代
―今日のわが駄句
・風船に希望詰めすぎ割れている


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