晴れると爽やかな好時節の到来を迎えて気分も和む。わが家の猫も夜明けとともに活躍を始める。まず手始めに手を舐め、顔を入念にこするのに余念がない。朝妝(ちょうしょう)という難しい漢語がある。妝とは装うという意味がある。明治28年(1895)第4回内国勧業博覧会が京都で開催された。2年前フランスから帰国した黒田清輝(1866−1924)が
『朝妝』と題する作品を出展した。全裸のフランス女性が、鏡の前で朝の装いをしている構図である。この絵画をみて吃驚仰天した見物人は、「この絵は風紀を乱すものとして、官憲から取締まられるだろう」と噂した。この黒田の絵は、外光描写を取り入れた印象派風の絵で、明るい光をふんだんに取り入れた従来の日本人にはお目にかかかったことのない作品であった。しかし、「近年、外国から輸入される石銅裸体人形の如きは、すでにたくさん公衆の観覧に供している。日本には在来の裸体仏像の他にも浮世絵があり、排除する必要はない」という理由でその絵の展示が許可され一件落着したという。今では滑稽千万なことではあるが、当時は、その見識は大英断であったのだ。
裸体画論争の風刺画
1820年、エーゲ海の小島で農夫により発見された大理石彫像は「ミロス島のアフロディテ」と呼ばれ、ルーブル美術館に入った。2メートルに達するその体は、腰のあたりを断面にして上下二つの石材からなっていて頭は小さく、首長、生々しい豊満な胸の起伏、ふくよかな腰、左右に重心をかけて上体を左にひねり、右に曲げた体全体が均衡の美を示すとともに、その官能的な美しさが魅力となった。この像には、両腕が失われているため、そのポーズも憶測が絶えず、下半身にまつわっている衣と発達した腰がただよわす官能美は話題が絶えない。門外不出と言われたこのヴィーナス像が日本に来た時のことを思い出す。一体の石像を観るのに京都博物館に見物に出掛けた。会場を取り巻く長蛇の列に加わった純真さがなつかしい。あれから半世紀の時間が経っている。
朝妝の気分のなかに、洋の東西の美術を思い出す。
ミロのヴィーナス
―今日のわが愛誦短歌
・
とある樹を鬱金桜と確認し
得たる日までの四月長かり 加藤将之
―今日のわが駄句
・朝目覚め顔洗いけり風光る
黒田清輝 『朝妝』(1893)

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