「昭和の日」なる祝日があるとは失念していた。耄碌も大分進んでいるような気もする。昭和天皇薨去のあと、「天皇誕生日」が「みどりの日」になったことは、この新緑のゴールデンウイーク期間中にある祝日名としては詩的感性のある呼び方であると、いたく感心したものであった。ところが、平成19年(2007)に制定された祝日であることを知った。「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」との趣旨で昭和天皇の誕生日である4月29日を当てたという。明治天皇の誕生日であった「明治節」が「文化の日」であるように「みどりの日」が良かったと思っているのは如何なものでしょうや。敗戦という責任をとり、退位を決意し、自ら処刑される覚悟があったと伝えられる昭和天皇であったのだが、占領軍総司令官マッカーサー元帥の判断で不問に帰せられた。以後、平和国家として現在の繁栄を遂げたことを祈念しての祝日制定になったのであろう。
桃ケ池に貸ボート屋があった
大阪市阿倍野区に昭和町と名付けられた町名がある。股ケ池や長池などの溜池が周辺に現存するように田辺郷の田園地帯であったのが、昭和4年(1929)阪南土地区画整理組合の土地造成が完成して町名を新年号の「昭和」にあやかり「昭和町」と名付けられたことになっている。多分、当時、小林一三が阪急沿線を開発したことを参考にしたのだろう二階建て棟割長屋、表に2−3坪の坪庭のついた建売住宅が販売され住宅地として発展してきた。そう遠くない帝塚山の高級住宅地とは対照的な庶民の町づくりがなされたのである。第二次世界大戦の激化で、大阪も例にもれず戦禍で中心市内の大半が焼失してしまった。昭和20年(1945)3月13日の大阪大空襲で罹災したわが家も縁者を頼って焼け残ったこの地域に一旦落ち着いた。しかし、迫りくる空襲の危機を避けて、岐阜に疎開していったのであるが、戦後、奇跡的にこの昭和町一帯は焼失を免れていた。昭和26年(1951)大阪市営地下鉄御堂筋線(当時はこの線しかなかった)が西田辺まで開通した。そして、天王寺と西田辺との中間に昭和町駅は開設された。今も思い出すのだが道の上から下を走って行く屋根が見られた地下鉄であったのだ。もし、この地域までもが焼土と化していたならば、この突貫工事はなかったかも知れない。幸いにこの地は戦災をのがれ、戦前からの町並みが残されたのである。
我孫子筋が開通していなかった頃の地下鉄
地下鉄御堂筋線、昭和町駅界隈で「昭和の日」に「昭和町」で「昭和の文化」を味わおうというお祭りか開催されているというので見学に出掛ける。70才になれば、大阪市民には有難いお上からのお恵みがある。大阪市営地下鉄、ニュートラム、バスと無賃で乗車できる「敬老優待乗車証」の交付がなされる。戦前、戦後と大阪市に市民税を納めてきた者にとってはこれ位のお礼は有って然るべきだと言っていた大金持ちの「ぼんぼん」もこの世から去って久しい。この昭和町界隈の二階建連棟の借家を数百軒持っている資産家の気宇広大な話を聞きながら界隈の食べ歩きの伴をしたあの頃とくらべ変貌している昭和町駅に無賃で降り立つ。
今も残る戦前に建てられたこの界隈の連棟家屋
サッちゃんはね サチコっていうんだ ほんとはね
だけど ちっちゃいから 自分のこと サッちゃんって呼ぶんだよ
可笑しいな サッちゃん
サッちゃんはね バナナが大好き ほんとだよ
だけど ちっちゃいから バナナを 半分しか 食べられないの
可哀相ね サッちゃん
サッちゃんがね 遠くへ行っちゃうって ほんとかな
だけど ちっちゃいから ぼくのこと 忘れてしまうだろ
寂しいな サッちゃん
坂田寛夫記念碑 阿倍野区阪南町1丁目
この町の幼稚園に昭和のはじめ通っていた坂田寛夫(1925−2005)の童心が育まれた町である。
昭和の遊びコーナー 縄跳び
―今日のわが愛誦短歌
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春鳥はまばゆきばかり鳴きをれど
われの悲しみは渾沌(こんとん)として 前川佐美雄
―今日のわが駄句
・薫風や昭和名のみの町歩きけり

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