民俗学者として各地の民話を、聞き、採録した柳田国男(1875−1962)は、その著
『山の人生』で
「我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い」と書いていることばである。民話の故郷には、人間の想像をこえる知恵がたくさん隠されていたに違いない。そこで生活した人の営みこそ、現代人にいろいろなことを教えてくれたのだと、語りかけてくれる。
昨日、訪れた豊中市の服部緑地内にある「日本民家集落博物館」での日本各地から集められた茅葺き屋敷を思い出しながら、かってそこで生活していた人たちの、幾世代に渡った営みが静かに隠されていることを想像すると、紫式部ではないが、
「目に見えぬ鬼の顔などのおどろおどろしく作りたる物」と、
『源氏物語』にあるような物が、その辺に隠れているような気配を感じる。
囲炉裏で木を燃やして話を訊く案内人が付いている、摂津能勢の民家(旧泉家住宅、重要文化財)、飛騨白川の民家(旧大井家住宅、重要有形民俗文化財)での会話に、その土地での自然を活かし、地域と調和しながら生活を営んででいた人たちの知恵が随所に見えてくる。
かつては各地に点在した茅葺き住宅も昨今姿を消してしまった。それがここでは、茅葺きの屋根が並ぶ風景を見て涙が零れそうになる郷愁を感じさせてくれる。茅葺きにする屋根葺き職人も少なくなったと聞くのだが、手に入り難い茅は何処から賄うのかと問えば、大和の曽爾高原の産が使用されているのだと応えがあった。資材の安定供給が確保されていることが分かった。話が弾む。それらの民家に住んでいた人たちの家族制度についてである。
白川郷では、長男のみが嫁を迎え一家の跡継ぎとなる。その他の男子は、実家に居候しながら好きな女性の家に通い、そこで生まれた子供は女性の実家の一員とされた。家長夫婦と長男夫婦の直系家族を中心に、長男以外の男子、他家の長男の嫁とならなかった女子とその子どもたちを取り込みながら、一家の人数がふくれあがっていった。最大例では40人の大家族が暮らしていたという記録がのこされているという。最近では出稼ぎが増え、他地域との交流が深まるにつれ、長男以外の男子も妻子と同居できる暮しを求めるようになった結果、白川郷の大家族制が崩壊してしまったという。
@飛騨白川A摂津能勢B日向椎葉C信濃秋山D大和十津川E越前敦賀F南部曲家G奄美大島高倉など全国各地の茅葺き民家を懐かしみながら、日本人のこころの原風景に出逢えた一刻であった。しかし、そこに繰り広げられていた、封建時代の因習に耐えた過去の日本人たちのすがたを空想しながらそこに横たわっている民家群を感慨深く眺めた。
―今日のわが愛誦短歌
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ちる花はかずかぎりなしことごとく
光をひきて谷にゆくかも 上田三四二
―今日のわが駄句
・風薫る如何なる風かと笑われる


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