風薫る季節。だが、乱調な天の気は落着くことなく竜巻を起こし、雷鳴が轟き渡り、雹(ひょう)が地表を叩きつけた。そんな五月も今日で終わる。この日に逝った写真家、木村伊兵衛の眼が捉えた「昭和」を眺めながら、「子どもの日」に稼働する日本のすべての原発がゼロになったのも束の間に、野田佳彦首相は、関西電力の大飯原発3、4号機の再稼働を決断した。嗚呼、脱原発依存というこの政権の方針はどうなっているのかと、いらいらしてきた。
木村伊兵衛(1901−1974)は、当時、日本一の盛り場浅草まで徒歩15分、吉原遊郭10分、上野公園10分と浅草と上野の中間、下谷で生まれた江戸っ子である。父は紐の製造業者で生活は安定し、一人っ子で、大切に育てられ、小学生のころ、当時としてはハイカラな高級玩具の単玉(たんぎょく)のボックスカメラと、現像焼付用具などを、父親から買ってもらったのが写真との出合いであった。今に残る、近藤勇や坂本龍馬の映像も、幕末に渡来した大型の単玉カメラであった。被写体は20分間ほどレンズがない単玉カメラの前で構えたのである。当初はフイルムはなく、ガラスに水銀を塗った乾板で、撮影後、現像すると乾板のうしろに黒い布や紙をあてがって、普通の影像の調子に見えるようにしたという。印画紙に焼付ける方式でフイルムが使われるようになったのは明治時代になってからであり、昭和初期からは、微粒子現像法が出てきて精巧な小型カメラが出来た。ライカなどが昭和8年ごろから日本でも流行した。そのカメラで撮った
『木村伊兵衛の昭和』という写真の数々の場面を見ながら平成の今を考えているところである。
木村伊兵衛はことさらにテーマを強調するのではない、演出のない自然な写真を撮ることで知られた。こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町や銀座周辺とそこに生きる人々の日常を、自然な形で切り取っている。彼と対比された土門拳が深い被写界深度で女性のシワやシミなどもはっきりと写し出すため嫌われることが多かったのに対し、木村は浅い被写界深度でソフトに撮り、女性ポートレートの名手とうたわれた。
T 庶民の暮し(戦前・戦中)
U 復興の槌音(昭和20年〜24年)
V 変貌する街(昭和25年〜30年)
W 戦後が終わって(昭和31年〜39年)
X ゆたかな昭和(昭和40年以降)
と、目次を繰っていくと、木村伊兵衛がライカで捉えたスナップが、その時代、時代の人間のすがた、表情、風景がこころを打つ。紙芝居、帽子のクリーニング(1932)街の芸人、洋服屋、ブロマイド屋、下町の子ども(1933)沖縄の子どもたち、那覇の市場、盛装沖縄、葬式沖縄(1934)法善寺門前、靖国神社招魂祭(1936)数寄屋橋夜景、商家、八百屋、隅田川(1937)漁村の曙、漁村の女、子どもの隣組、バスガール、千人針(1941)などのスナップ写真はライカで捉えた的確な目が、歴史を証明していて今も新鮮な印象を伝えている。それらの戦前戦中に登場する日本人の風景はもう見られない。そして、戦後の映像スナップこそ木村伊兵衛の真骨頂であろう。
彼の業績を記念して1975年、写真界の芥川賞と云われる「木村伊兵衛写真賞」が作られた。岩合光昭や星野道夫そして最近では蜷川実花や梅加代らが受賞して現代日本の写真界を背負っている。木村伊兵衛の精神は生き続けてるのである。
―今日のわが愛誦短歌
・
わが父のちんどん屋にておはしなば
悲しからむとちんどん屋見つ 窪田空穗
―今日のわが駄句
・万緑や昭和の風景歌もまた

72