昭和元年(1926)は、一週間しかない。大正天皇が12月25日に崩御され、諒闇(りょうあん)のうちに新年が明けて昭和2年(1927)を迎える。
青蛙おのれもペンキ塗りたてか 我鬼
特異な句境を残して、7月24日、神経衰弱が悪化して、薬物をあおいで自殺した。36歳。好んで河童の絵を描き、死の年に発表した
『河童』の作品があることで「河童忌」として以後、芥川龍之介は追悼されている。
昭和30年(1955)4月9日購入と稚拙な文字がある
現代日本文学全集『芥川龍之介集』(筑摩書房)を書架の隅から引っ張り出して来る。戦後、国民が文学作品に飢えていたとき、筑摩書房が大英断した、全100冊を超える350円の廉価で発行された良質な日本文学全集の嚆矢(こうし)であったといわれている。何十年ぶりかで読む旧漢字、旧かな遣いの
『河童』を一気に読破した爽快感にひたったところである。芥川にしか書けない、河童の世界を通して描かれる奇抜な発想が今でも新鮮さを感じさせてくれる。たとえば、河童の哲学者が書いた「阿呆の言葉」の何章かが紹介されている。曰く。
「阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる」。「我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬したりしない為もないことはない」。「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもその又習慣を少しも破らないやうに暮らすことである」。「我々の最も誇りたいものは我々の持っていないものだけである」。「何びとも偶像を破壊することに異存を持ってゐるものはない。しかし偶像の台座の上に安んじて坐ってゐられるものは最も神々に恵まれたもの、―阿呆か、悪人か、英雄かである」。「幸福は苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとすれば、―?」。「自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。疑ふものは弁護士を見よ」。「我々は人間より不幸である。人間は河童ほど進化してゐない」と。
衰えた肉体と傷ついた精神に鞭打ちながら、「ぼんやりとした不安」というような、ぼんやりしたことばを残して、芥川は自殺したのだという考えかたもあるのだが、機智、風刺、諧謔、冷笑という仮面をとって、素顔を見せたかったのではと考えながら、一世紀近く経った「ぼんやりした不安」に付き纏われている現代と比較して見るのは興味深いことである。
そして、芥川の遺稿になった
『或阿呆の一生』のなかにある「死」には次のことが記されていて彼の自殺を予言されている。
「彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて縊死しようとした。が、帯に頸(くび)を入れて見ると、俄かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみの為に恐れたのではなかった。彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。するとちょっと苦しかった後、何も彼もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさえすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかった。彼は時計の針を檢べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒 かだったのを發見した。窓格子の外はまつ暗だった。しかしその暗(やみ)の中に荒あらしい鶏の聲もしてゐた。」
「萬人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。」又「自殺に対するモンテエエヌの弁護は幾多の真理を含んでゐる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出来ないのである。」又「死にたければいつでも死ねるからね。ではためしにやって見給へ。」
『侏儒の言葉』より。
―今日のわが愛誦短歌
・
ひたふるに河豚(ふぐ)はふくれて水のうへ
ありのままなる命死にゐる 斉藤茂吉
―今日のわが駄句
・河童忌やすでに忘れし物語

66